関羽が曹操の配下になる
呂布が敗れてしばらくすると、曹操に味方していた劉備が離反し、徐州を曹操から奪いました。
このために曹操は再び遠征し、劉備を打ち破って徐州を取り戻します。
その際に、曹操は劉備の臣下である関羽を捕虜にしました。
曹操は関羽を解放して厚遇し、偏将軍の地位を与えます。
こうして張遼と関羽は一時、同じ陣営に属することになりましたが、両者は親しく交流を持ちました。
ともに主君が敗れて曹操に仕えることになった、という境遇にありましたので、話が合いやすかったのかもしれません。
しかし関羽の主君・劉備はまだ生きており、このために張遼は曹操と関羽の間に置かれ、悩まされることになります。
曹操に関羽の心情をたずねるように言われる
曹操は関羽の立派な人柄を評価していたものの、自分の元に長く留まる気がないのではないかと、推察していました。
このため、関羽と親しい張遼に、「友人として、関羽の心情をたずねてみてくれ」と頼みます。
張遼が関羽に会ってたずねてみると、関羽は嘆息してこう答えました。
「曹公(曹操)が私を厚遇してくださっていることはよく知っています。
しかし私は劉将軍(劉備)から厚い恩義を受けており、いっしょに死のうと誓った仲です。
あの方を裏切ることはできません。
私がここに留まる事はありませんが、立ち去る前に手柄を立て、曹公に恩返しをするつもりです」
これを聞いた張遼は、そのまま伝えると、自分に仕え続ける気がないのだと知った曹操が、関羽を殺害してしまうのではないかと恐れます。
しかし報告をしないと、主君への忠義に背くことになってしまいます。
このため張遼は嘆息し、「曹公は主君であり父であるが、関羽は兄弟にすぎぬ」といって、関羽が述べたことをそのまま曹操に伝えました。
すると曹操は「主君に仕えてその根本を忘れないのは、天下の義士である」と関羽の劉備に対する忠誠心を称賛しました。
幸いにして、張遼の危惧は杞憂におわったのでした。
そして「いつごろ立ち去ると思うか」と曹操がたずねると、張遼は「必ず手柄を立て、公に恩返しをしてから立ち去るでしょう」と答えました。
白馬の戦いをへて関羽が立ち去る
その後、袁紹の軍勢が白馬に攻めこんでくると、曹操は迎撃するために出撃します。
そして張遼と関羽が、先鋒を務めることになりました。
関羽は白馬を攻撃していた敵将の顔良を見つけると、その陣営に斬り込み、敵の大軍のまっただ中で顔良を刺殺し、首を取って戻ってきます。
この離れ業によって、関羽は予告した通り手柄を立てたのでした。
この図抜けた働きには、張遼も舌を巻いたことでしょう。
関羽が曹操の元を立ち去る
戦いが終わった後、曹操は関羽が必ず立ち去るだろうと思いつつも、重く恩賞を与え、漢寿亭候の爵位も授け、引き留めを図りました。
すると関羽は贈り物に全て封印をし、決別の手紙を捧げた上で、袁紹に所属していた劉備の元に去っています。
曹操は「彼は彼なりに、主君のためにしているのだ。追跡してはならない」と部下たちに命じ、関羽の思い通りにさせてやりました。
これには張遼も安堵したことでしょう。
そして曹操の寛大な措置を見て、忠誠心を強めたことと思われます。
こうして張遼と関羽の、ひとときの関わりは終わったのでした。
以後、張遼は曹操に忠実に仕え、各地で活躍することになります。
昌豨を討伐する
張遼は曹操に仕えてから、たびたび戦功を立て、裨将軍に昇進しました。
やがて徐州の東海郡で昌豨が反乱を起こすと、張遼はその討伐に派遣されます。
昌豨は劉備と同盟を結ぶなどして、たびたび曹操への反乱を起こしていた、手強い武将でした。
この時、張遼は夏侯淵とともに昌豨を攻撃していたのですが、戦いが数ヶ月におよび、食糧が尽きたので、撤退が検討されます。
張遼はこれに反対し、「ここ数日、包囲陣を巡行するたびに、昌豨は私をじっと見つめ、矢を射かけてくることもまれになっています。
おそらく昌豨の気持ちがぐらついており、そのために力を尽くして戦わないのでしょう。
私が彼の気を引いて話をすれば、味方に引き入れることができるかもしれません」と夏侯淵に言いました。
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