陳蘭と梅成を討伐する
曹操が荊州を攻撃していた頃、揚州北部で陳蘭と梅成という武将たちが反乱を起こします。
曹操は于禁を派遣して梅成を討伐させ、張遼に陳蘭の討伐を命じました。
やがて梅成は見せかけの降伏をして于禁を帰還させると、陳蘭と合流して灊山に入ります。
そのあたりの山地には、天柱山というひときわ高く、険しい山がありました。
そこへ続く二十里(約8km)の道は狭く、小道がわずかに続いているだけでした。
陳蘭たちはその上に砦を築きましたが、張遼が小道を進もうとすると、他の将軍たちは「こちらの兵は少なく、道は危険です。深く侵入するのは困難でしょう」と言って反対しました。
すると張遼は「道が狭いがゆえに、一対一の戦いになるのだから、勇敢な者であれば進めるはずだ」と言ってそのまま進軍し、天柱山の下に陣営を構えます。
そして山上に猛攻をしかけ、陳蘭と梅成を討ち取り、降伏した者たちをみな捕虜にしました。
狭い道しかなく、しかも山上に砦を構えれば、守る側が圧倒的に有利なのですが、それを打ち破って敵将を斬った張遼は、抜群の強さを持っていたことになります。
狭い道に立ち塞がる敵を次々と倒し、山上へと駆け上がって行ったのでしょう。
曹操は将軍たちの戦功を調べ、張遼が最も優れていたと承認し、領地を増やして仮節を与えています。
節とは、前線において独自に判断できる裁量権のことで、一流と認められた将軍にのみ、与えられる権限でした。
こうして張遼は、曹操軍の中でも際だった存在になっていきます。
合肥で孫権軍と対峙する
やがて215年になると、曹操は揚州を支配する孫権の征伐を行いますが、屈服させられなかったので、合肥に張遼と楽進、李典らを駐屯させて守備を任せました。
そして曹操自身は漢中の張魯を討伐しに向かうのですが、護軍(監督官)の薛悌に命令書を与え、箱のふちに「賊(孫権)が来たら開け」と記しておきました。
すると間もなく、孫権が十万の軍勢を率いて合肥を攻撃してきます。
この時に合肥を守っていたのは、七千ほどの兵力でした。
命令書を開く
この危機的な状況に際し、合肥の将軍たちが集まって曹操の命令書を開くと、「もし孫権が来たら、張遼と李典は城を出て戦え。楽進は薛悌を守り、決して出撃してはならない」と記されています。
十万対七千と、戦力に大きな開きがあったので、諸将は命令の遂行をためらいました。
すると張遼は「公(曹操)はいま遠くにおられる。
救援を待っていては、我らは打ち破られてしまうだろう。
だから敵の包囲網が完成しないうちに攻撃をしかけ、出鼻をくじいて合肥の人々の心を落ち着かせ、その後で守備をせよと命じられたのだ。
勝敗はこの一戦にかかっている。
いったい何をためらう必要があるのだ」と述べました。
張遼と李典、楽進はみな、己の武勇を頼んで思うようにふるまい、互いに仲が悪かったので、張遼は彼らが従わないのではないかと懸念します。
しかしこの時、李典が「これは国家の大事だ。われわれは個人の怨みによって、公の道義を忘れたりはしない」と述べ、普段のわだかまりを捨て、張遼の策に賛同しました。
こうして張遼は李典とともに、孫権の大軍に対して攻撃をしかけることになります。
勇士を募って出撃する
張遼は夜のうちに志願者を募り、八百人で攻撃隊を編制しました。
そして牛を屠ってみなにふるまい、将兵を励まし、翌日に決戦を行うことにします。
夜が明けると、張遼は鎧をつけて戟を持ち、先頭を駆けて敵軍に突入しました。
そしてみずから敵兵数十人と、将校を二人斬り捨て、おおいに暴れ回ります。
大声で自分の名を呼ばわりつつ、孫権軍の防衛線をつきやぶって侵入すると、ついに孫権の本陣にまで迫ることができました。
孫権はそこまで迫られるとは考えておらず、仰天して小高い丘の上に逃げ出します。
そして長い戟を手に取り、それで身を守りました。
張遼は孫権に「降りてきて戦え!」とどなりつけましたが、孫権は動かずに状況を観察するうちに、やがて張遼の軍勢が少ないのに気がつきます。
このため、配下の将軍たちに命じて張遼を包囲させますが、張遼はこれをものともせず、右に左に押しよせてくる敵を追い払い、激しく突き進んで攻撃すると、やがて包囲を突破することができました。
張遼の側には数十人の兵がいたのですが、他の者たちが取り残されており、「将軍、私たちを見捨てるのですか!」と叫びます。
すると張遼は取って返し、再び囲みを突き破り、残りの兵士たちを救出しました。
この張遼のすさまじい戦いぶりに、孫権の兵は恐れて立ち向かわなくなり、みな道を開けるようになります。
真昼ごろになると、孫権軍はすっかり戦意を喪失したので、張遼は城内に引き返して守りを固めました。
こうして張遼と李典は、たった八百人で、十万の将兵の心を折ってしまったのでした。
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