廖化とともに名を語られる
張翼は廖化という将軍と同格に扱われていましたが、ふたりがともに大将軍の地位につくと、次のように噂されました。
「前に王平、句扶あり、後に張翼、廖化あり」
王平や句扶は、ともに蜀を支えた優れた将軍で、張翼たちよりも先に立身し、亡くなっていました。
張翼はその王平たちに後から並び、蜀軍の重鎮の立場を得たのです。
姜維の進軍に反対する
姜維は涼州の狄道に到着すると、魏の雍州刺史・王経を撃破しました。
この時、魏軍は数万の損害を出したとされており、蜀軍の大勝利でした。
姜維はこの勢いをかって王経を追撃し、城を奪い取ろうと考えます。
しかし張翼はこれに対し「ここは止まるべきで、これ以上は進撃してはなりません。
進撃をすれば、あるいはこの大功を損なうことになりかねません」と述べ、反対しました。
これは蜀軍が携えている糧食が少なく、時間を費やして城を攻め落とすのは難しいからでした。
姜維はこれを聞くと、おおいに腹を立てます。
張翼は「蛇の絵に足を書きたすようなものです」と重ねていさめますが、姜維はそのまま狄道城を包囲しました。
しかし、魏の将軍・陳泰が救援にやってくると、張翼が指摘した通り、撤退せざるを得なくなり、成果は得られませんでした。
さらに昇進する
張翼が何度も異論を唱えたので、姜維は内心では張翼を嫌うようになっていました。
ですが、張翼の能力が必要だったようで、いつも引きつれ、ともに出陣しています。
張翼もしかたなく遠征に参加しました。
259年には左車騎将軍に昇進し、冀州刺史を兼務します。
剣閣に立て籠もって魏軍を迎撃する
263年になると、度重なる遠征によって蜀の国内は疲弊し、宦官の黄皓が実権を握ったことで、統治能力も衰えていきました。
魏はその様子を察知すると、大軍を派遣して蜀を攻め滅ぼしにかかります。
しかし黄皓が姜維からの報告を握りつぶしたため、蜀軍は初動で遅れをとってしまいました。
張翼は魏軍を迎撃するために出陣しましたが、前線で姜維が敗北したため、合流して要害の剣閣に立て籠もります。
そして魏の将軍・鐘会を迎え討ち、つけいる隙を与えませんでした。
成都が降伏する
しかし張翼たちが奮戦していた間に、間道を抜けた魏の将軍・鄧艾に成都を攻め落とされ、蜀は滅亡してしまいます。
このため、張翼はやむなく姜維とともに、鐘会の元を訪れて降伏しました。
この時に蜀の将兵は、悔しさのあまりに刀で岩をたたき切ったといいます。
翌264年には、鐘会とともに成都に入りますが、やがて鐘会と姜維が結託し、魏に対する反乱を起こしました。
姜維は鐘会を焚きつけて背かせ、魏軍を倒し、その後で鐘会をも殺害し、蜀を復活させようと策をめぐらしたのです。
しかし魏軍の反抗を受けて鐘会も姜維も討たれ、張翼もこの混乱の中で殺害されてしまいました。
張翼の晩年は、姜維に振り回された日々だったと言えます。
張翼の子は張微といい、学問に熱心に励み、後に父も務めた、広漢太守にまでなっています。

張翼評
三国志の著者・陳寿は「張翼は姜維の鋭気に抵抗した。称賛されるべきところがある」と評しました。
姜維は積極的に蜀軍を動かして魏に攻撃をしかけましたが、結局は成果を得られず、蜀を疲弊させ、滅亡に導いてしまっています。
張翼はそれを危惧して止めようとしたのですが、姜維は耳を貸しませんでした。
張翼の予測は正しかったのですが、それが自身が姜維の計略に巻き込まれて殺害されるという結果として、返ってきてしまったのでした。
不運な人物だったと言えます。
