補佐役の採用に意見を述べる
やがて曹叡は病に倒れましたが、後継者の曹芳はまだ幼かったので、重臣たちを補佐役として残すことにします。
曹叡は初め、燕王の曹宇を大将軍に任命し、夏侯献、曹爽、曹肇、秦朗らと一緒に、補佐役に任じようとしました。
しかし曹宇は謙虚な性質の持ち主だったので、これを固辞します。
このため、曹叡は劉放や孫資を呼び、寝室に入れて質問をしました。
「燕王はどうしてあのようにふるまうのだろうか」
劉放と孫資は「燕王は大任を引き受けきれないと、自らわきまえておられるのです」と答えます。
すると曹叡は「ならば曹爽を曹宇にかえようと思うが、どうか?」とたずねました。
劉放と孫資がこれに賛同し、加えて太尉(国防大臣)の地位にある司馬懿を召喚し、皇室を支える柱にすえるべきだと主張します。
曹叡はこれを受け入れ、すぐに黄色の紙を劉放に与え、詔勅を作成させました。
曹爽と司馬懿が権勢を握る
劉放と孫資が退出すると、曹叡の気持ちが変わり、司馬懿をこちらに呼んではならないと詔勅を下します。
それからもう一度、劉放と孫資に会い、「わしは太尉を召し寄せたいと思ったのだが、曹肇たちが反対したので、やめることになってしまったのだ」と告げました。
そして改めて詔勅を作るように命じ、今度は曹爽だけを呼び寄せ、劉放と孫資とともに命令を受けさせます。
一方で、曹宇、夏侯献、曹爽、曹肇、秦朗らを免官して遠ざけました。
この後で曹叡は亡くなりましたが、この結果、魏の実権は曹爽と司馬懿が握ることになります。
事態の背景
劉放と孫資はかねてより、曹肇たちとうまくいっていませんでした。
このために彼らを政治から遠ざけ、仲の良い曹爽や司馬懿らが用いられるように働きかけたのです。
劉放らは曹肇らの悪口を病床の曹叡に吹き込み、その意志をねじ曲げたのでした。
次代になると、曹爽はやがて増長するようになり、政治を壟断し、司馬懿から実権を奪い取りました。
しかし司馬懿の逆襲を受けて一族郎党が皆殺しにされ、曹氏の勢力が大きく傾きます。
これによって、やがて魏が滅亡する流れが形成されていくことになります。
つまり劉放と孫資は、皇帝の寵愛を受けながらも、その国が傾くきっかけを作ったのでした。
その後も地位が高まる
曹芳が即位すると、劉放と孫資は枢機に参画したことを理由に、三百戸を加増されます。
そして劉放の子の一人が亭候に取り立てられ、次子が騎都尉に、他の子が郎中(宮廷官)になるなどし、一族が栄えました。
二四〇年になると、劉放が左光禄大夫に、孫資が右光禄大夫になり、さらに金印紫綬・儀同三司を与えられます。
これらは宰相の待遇を意味します。
二四五年には、劉放は驃騎将軍に、孫資は衛将軍になり、軍権まで持つようになりました。
両者には軍事的な実績はありませんでしたが、それでもこの待遇を受けたことから、朝廷でよほどに尊重されていたことがうかがえます。
やがて両者とも、年老いたので退官しましたが、その際に特進(大臣に次ぐ地位)を与えられました。
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