豊臣秀次は秀吉の養子となって関白の地位についた人物です。
元々は秀吉の甥でしたが、秀吉に実子がいなかったことから重用されるようになり、成長するにつれて順調に地位が高まっていきました。
そしてついに天下人の後継者に指名されて関白に就任しますが、秀吉に実子の秀頼が生まれたことにより、その流れが反転します。
自分の立場が脅かされることを恐れた秀次は次第に健康を蝕まれ、秀吉との関係に軋轢を生み、やがて自害にまで追い込まれます。
この文章では、どうして一度は天下人になりかけた秀次が、秀吉に抹殺されてしまったのか、について書いてみます。
(なお、秀次は生涯のうちに何度も姓名が変わっているのですが、煩雑になるため、この文章では「秀次」で通して書いていきます。)
【豊臣秀次の肖像画】
秀吉の甥として生まれる
秀次は1568年に秀吉の姉「とも」と、弥助という馬貸し業を営む男との間に生まれました。
幼名を治兵衛といいます。
そのままであれば農村で生まれた男の子として、ごくありきたりな人生を歩んだはずでした。
しかし叔父が織田信長に仕えて出世した木下秀吉であったことから、やがて数奇な運命をたどることになります。
父・弥助は秀吉の出世にあやかり、その縁者として織田信長に仕官しました。
そして木下弥助と名のり、秀吉の元で働くようになります。
こうして父が武士になったことから、秀次もまた、戦乱の世の動きに巻き込まれていくことになりました。
宮部継潤への人質となる
1570年ごろから、秀吉は北近江(滋賀県北部)の横山城を信長から任され、同地の大名である浅井長政と戦っていました。
この時に秀吉は浅井氏の家臣への寝返り工作も担当し、1572年には宮部継潤(けいじゅん)という武将を寝返らせることに成功します。
継潤は浅井氏の本拠・小谷城への攻撃拠点として使える砦を所有しており、このために浅井氏の打倒を目指す織田氏にとって、重要な意味を持つ存在でした。
この時の交渉で、寝返った継潤を見捨てないと保証するため、秀吉の方から人質を送ることになります。
秀吉には実子がいなかったため、甥の秀次が人質となり、継潤の元に赴いています。
宮部吉継を名のる
この際に秀次は継潤の養子になっており、「宮部吉継」と姓名を変えています。
名前は秀吉の「吉」と、継潤の「継」から取られたのでしょう。
こうして秀次は、4才にして武士の子としての役割を担い始めています。
この時に継潤の家臣・田中吉政が傅役(教育係)につけられますが、彼はその後も長く秀次の側近として仕えることになりました。
吉政は足軽(最下級の兵士)の出でしたが、この縁が元で、後に大名にまで出世することになります。
やがて1573年に、浅井長政が信長の大軍によって攻め滅ぼされると、秀吉は信長から北近江の領主に任命されました。
そして継潤が秀吉に仕えるようになったため、養子縁組が解除され、秀次は秀吉のところに戻っています。
三好康長の養子となる
その後、秀吉は中国地方の攻略を信長から命じられ、播磨(兵庫県)に拠点を確保します。
そして瀬戸内海を挟んだ、向かいの阿波(徳島県)に勢力を持つ、三好康長と関わりを持つようになりました。
三好康長は四国制覇を狙う長宗我部元親と戦っていましたが、不利な状況が続いたことから、信長の支援を得て元親に対抗しようとしたのです。
この時に康長を信長に引き合わせたのが秀吉でした。
信長は秀吉に康長の面倒をみさせ、四国進出の際の足がかりとして用いることにします。
康長は秀吉との連携を強めるため、秀次を養子としてもらい受けたいと申し入れました。
秀吉はこれに応じ、このために秀次は再び他家に養子として出向くことになります。
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