豊臣秀次はどうして秀吉によって抹殺されたのか?

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秀次に罪はあったのか?

こうして秀次は、妻子もろとも、あっけなく抹殺されてしまいました。

そして秀次は辻斬りを行ってむやみに人を殺害していた、妊婦の腹を切り裂いて胎児を見ようとした、といった根拠のない残虐な風聞が流され、処刑を正当化するための処置が行われています。

秀次の首塚が「畜生塚」と呼ばれたのは、このためです。

秀次には刀の収集を趣味にしており、死刑囚をその試し斬りに用いたり、京の近くで狩りをして顰蹙を買うといった、多少の悪癖はあったのですが、それが関白の地位を剥奪して処刑し、係累ごと皆殺しにするほどの罪に値するかと言えば、まったくあてはまらないでしょう。

この事態は、秀吉が自分の意に沿わない秀次を排除し、秀頼への家督の継承を確実なものにするために行われた、と見るのが妥当であると思われます。

秀次に非があるとすれば、秀吉の朝鮮・明への遠征に賛同せず、出陣もしなかったことで、秀吉に自分に逆らうのかと、不快感を与えてしまったことにあると思われます。

黒田官兵衛から助言を受けていたにも関わらず、これを退けたことも過ちであったと言えます。

しかし何よりも、老いて権力と秀頼に妄執するようになっていた秀吉の、自分に逆らう者には容赦せず、どんな横暴でもためらいなく働くようになっているという、人格の変貌を察知できなかったことが、秀次に死をもたらしたのだと言えます。

それまでの秀吉は明るく、気前が良く、人を引きつける魅力に溢れていた人物でしたので、秀次にしても、少しくらい逆らっても、まさかそれで命を奪いに来るとは予想できなかったのでしょう。

元々が叔父・甥の関係であり、この頃には養父と養子になっていましたので、その点への甘えもあったと思われます。

この事件は、秀吉の晩年に見られる激しい人格の歪みが、一番最初に現れた事件だと言えます。

痕跡も抹消される

秀吉は秀次と妻子の処刑が終わると、今度は各地の大名たちに預けていた秀次の重臣たちを、全員切腹させます。

そして秀次のかつての居城であった、近江の八幡山城を破壊させ、また、関白の政庁として築いた聚楽第をも破却させました。

聚楽第については、建物の基礎から根こそぎ取り除くという、執拗なまでの破壊措置を行っています。

このため、かつての政治の中心地であったにも関わらず、聚楽第の遺構は、現代にまったく残されていません。

秀吉は秀次の血統のみならず、存在していたことすらも、なかったことにしたかったようです。

それらはすべて自分が秀次に与えたものでしたので、奪い去って消したところで何が悪い、という気持ちだったのでしょう。

また、秀次に関白の地位を与えたのは失敗だったと思い、それを思い返すことがなくてすむように、きれいさっぱりと消し去りたくなったのかもしれません。

いずれにせよ、ひどく乱暴な話です。

豊臣氏が大きな打撃を受ける

秀吉は自分の思い通りにできて気分がすっきりとしたかもしれませんが、豊臣政権は秀次の死によって、大きな打撃を受けることになります。

秀次に仕えていた多くの重臣たちを葬り去ったことで、豊臣氏の家臣団の力を、自ら弱めることになったからです。

そして秀次は秀吉が時間をかけて経験を積ませ、関白を担えるほどに育てあげた若者であったにも関わらず、これを抹殺してしまったことで、豊臣一門には、秀吉亡き後に政権を担える人物が、誰もいなくなってしまいました。

言わば、秀吉は自らの手によって、自らの政権を破壊してしまったのです。

それは秀吉にもわかっていたことでしょうが、この頃の秀吉には、理性によって自らの暴慢を抑えることができなくなっていたようです。

秀次の死から3年後に秀吉もまた死去し、後にはわずか5才の幼い秀頼だけが残されます。

このために豊臣氏は政権を維持できなくなり、秀吉の死から2年後には、徳川家康に天下人の地位を奪われてしまいました。

もしも秀次が生きていれば、秀吉の死の際には30才になっていたはずで、為政者としての経験をさらに積み重ねており、そう簡単に家康に天下を奪われることはなかったでしょう。

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