秀吉の操り人形のような生涯だった
これまで見てきたとおり、秀次は秀吉によって天下人に仕立て上げられたものの、思い通りにならず、また秀頼の邪魔者になるとみなされるや、あっさりと殺害されてしまいました。
まるで自分が着飾らせた人形を、飽きたから、という理由で捨ててしまう子どものようなふるまいで、晩年の秀吉の精神が、いかに幼稚なものになっていたのかがうかがえます。
秀次はその犠牲となり、さしたる非もないのに、痕跡ごと抹消されてしまいました。
いくつかの史料には、秀次が処刑されたのは、「忘恩のためであった」と記されており、謀反が原因であると書かれたものはなく、完全に言いがかりでしかなかったことは、当時の人々にも認識されていたようです。
しかしそういった秀吉の横暴を誰も止めることができかなったところに、独裁というものの害がありありと浮かび上がってきます。
先にも触れましたが、近江の大名だった時代の、秀次の善政に関する逸話が残されています。
これは数少ない秀次の人柄がうかがえる話で、秀吉の期待に応えてよい政治を行いたいと考えていた、秀次の真摯さや善良さを知ることができます。
いかに後付けで悪評を貼り付け、貶めようとも、直接関わった人々の記憶までもを塗り替えることは、独裁者である秀吉にもできなかったようです。