小牧・長久手の戦いに参加する
1584年に、秀吉は織田信雄と徳川家康の連合軍と、尾張(愛知県)で対戦します。
この戦いは「小牧・長久手の戦い」と呼ばれています。
信雄は信長の次男で、はじめは秀吉に主君として扱われ、協力していました。
しかし秀吉が自身の地位を高め、信雄との立場を逆転したことから反発するようになり、家康を巻き込んで秀吉との戦いを始めたのです。
秀吉が10万の、信雄と家康が3万の軍を率いて尾張に着陣し、それぞれに守りを固めて攻勢に出なかったため、戦況が膠着します。
この時に秀次の舅である池田恒興と、森長可という武将が、家康の領地である三河(愛知県東部)へ別働隊として侵入する作戦を計画し、秀吉に持ちかけました。
家康の領土に放火をするなどして荒らして周り、尾張から撤退させて膠着した状況を打破しよう、というのがこの作戦の意図でした。
しかし危険性の高い作戦であったため、秀吉は難色を示しますが、やがて両者に押し切られる形で実施を承認します。
別働隊の総大将になる
この時に秀次は、自分がこの作戦の総大将になりたいと名のり出ました。
舅の恒興の作戦だったので、同行して助けたいという思いと、ここで大きな手柄を立て、羽柴家における自分の地位を高めたい、という思いがあったのでしょう。
この時に秀吉はやらせてみようと思い、秀次を総大将に任じて8千の兵を与え、別働隊を率いさせました。
秀吉は秀次の指揮能力を信頼はしていなかったようで、戦上手だと定評のある堀秀政に、3千の兵力で秀次の護衛を任せます。
また、木下氏の一族の武将たちを秀次の護衛と監督につけ、なんとかこの難しい任務をやり遂げさせようとしました。
秀吉からしても身内のことですし、一族が活躍すれば羽柴氏の名声が高まるので、成功させるために色々と配慮をしたようです。
しかしこれに恒興と森長可の9千の兵を合わせたことで、この別働隊は2万という大軍に膨れ上がってしまいます。
この作戦は本来、少数の騎兵中心の、機動力の高い部隊で行うべきだったのでしょうが、様々な配慮のためにあまりにも数が多くなりすぎ、このために成功率を下げてしまうことになりました。
大勢で行軍したため、別働隊の動きはすぐに家康に察知されてしまい、三河に到着する前に迎撃を受けることになります。
長久手の戦いで大敗を喫する
秀次は本陣から出発して行軍し、やがて尾張の白山林という地点で野営をしています。
するとその翌日の夜明け前、午前4時頃に徳川軍の奇襲を受けます。
昨晩のうちに徳川軍は陣地から出陣し、密かに秀次の野営地の近くにまで迫っていたのですが、これに全く気がついていなかった秀次の軍勢は、不意の攻撃を受けて瞬く間に壊滅します。
同行していた木下祐介や、木下利匡(としまさ)といった親類たちが秀次を守るために踏みとどまって奮戦し、やがて戦死しました。
この時に秀次は自分の馬を失い、徒歩で逃げるという失態を演じています。
途中で家臣の可児才蔵(かに さいぞう)に行き会い、馬を譲るようにと命じますが、才蔵は「雨中の傘にござる」という捨て台詞を残してそのまま逃げてしまい、置き去りにされました。
しかしながら、親類にかばわれて秀次はなんとか逃げのび、秀次隊の壊滅に気がついた堀秀政の部隊に救援されます。
秀政は一旦は徳川軍を撃退したものの、家康自身が襲撃に来ていることに気づき、長居は無用とばかりに秀次をつれて退却しました。
この撤退によって恒興と長可は敵の渦中に取り残されてしまい、やがて家康の軍勢と戦って討ち死にしています。
こうして秀次は、自分の失敗の影響で、舅を戦死させることになりました。
秀次は秀政の働きによって無事に尾張の本陣まで戻りましたが、秀吉から厳しく叱責を受けることになります。
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