豊臣秀次はどうして秀吉によって抹殺されたのか?

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秀吉に激しく叱りつけられる

本陣に戻った秀次は「失った家臣たちの代わりに、池田監物を遣わしてほしい」と秀吉に要請します。

この時に、一柳市助という秀次の家臣が使者になりましたが、秀吉はこれを聞いて、用件を伝えに来ただけの市助を、手討ちにしようとするほどに激怒しました。

自分の失敗で家臣を失ったばかりなのに、すぐにかわりをよこせとは何事だと、その心ない要望に怒ったのです。

秀吉は「家臣を見殺しにした大たわけめ」と言って秀次を罵り、折檻状を送って厳しく注意をしました。

秀吉は秀次に「自分の甥にふさわしい分別を持つように」と戒め、それに応えるならばいくらでも出世させてやる、と告げます。

しかし今度のように無分別なふるまいや言動をするのであれば、一族の恥になるから手討ちにする、と戒めます。

後継者になるはずだった秀勝が病に倒れているので、将来はお前を後継者にするかもしれないが、それはこれからの心がけと覚悟次第だ、とも述べ、かつての養父だった宮部継潤を送り、秀次に自分の考えを伝えさせました。

こうした秀吉の反応を受け、秀次はおおいに反省をしたようで、以後は戦場で戦功を積み重ねていきます。

秀吉から後継者として考えている、という言葉を与えられたことで、発奮もしたのだと思われます。

また、この秀吉の叱責には、叔父としての厳しさとともに、肉親への情も感じられる内容であり、両者の関係は、基本的には良好だったことがうかがえます。

紀州征伐で戦功を上げる

秀次は翌1585年の紀州(和歌山県)征伐に従軍し、そこで副将を任されます。

この時に秀次は根来衆(ねごろしゅう)の前線拠点である、千石掘城の攻略を担当しました。

この城は急ごしらえのものでしたが、内部には根来衆の精鋭が1500人ほど籠城しており、このために秀次軍は苦戦をしいられます。

根来衆は鉄砲の扱いを得意としていて、拠点防衛に関してはこの時代で最強とも言えるほどの傭兵軍団です。

このため、秀次は2万という大軍を率いていましたが、決して楽な戦いではありませんでした。

まず堀秀政や筒井定次ら、1万5千の部隊が攻め寄せますが、城内からの激しい銃撃によって死傷者が続出します。

この苦戦を見て、秀次は側近の田中吉政ら3千の部隊を側面から城に突撃させますが、こちらも弓や鉄砲に撃たれて大きな被害を出しました。

しかし秀次はこれにひるまず、自身の護衛である馬廻をも投入し、ようやく二の丸を攻め落とします。

これらの攻防によって、わずか1時間の間に1000人もの死傷者が出ています。

さらに本丸でも激戦が行われ、この時には筒井家臣の伊賀衆が城の裏手に回り、内部に火矢を射かけました。

そして狙い通りに城の火薬庫に引火し、内部で大規模な爆発が発生します。

これによって本丸は防御力を失い、大勢が焼死し、ついに千石掘城は落城しました。

こうして秀次は紀州征伐の初戦を勝利で飾り、小牧・長久手の戦いの汚名を返上することに成功しています。

その後の四国で行われた長宗我部元親の討伐戦でも、副将として城を攻め落とす軍功をあげており、武将として一定の評価を得るに至ります。

いずれも圧倒的な兵力差に基づく勝利ではありましたが、秀次は勇猛果敢に指揮を行っており、軍事に関しては、ある程度の能力を備えるようになっていたことがうかがえます。

秀次を名のり、43万石の大名となる

秀吉はこの頃に朝廷の最高位である関白に就任し、豊臣政権を樹立して天下人になりました。

秀次はこの時に「秀」の一字を与えられ、信吉から「秀次」に改名しています。

これによって、秀吉の後継者になり得る存在だと、天下に示されたことになりました。

やがて長宗我部元親が降伏して四国征伐が終わると、秀吉は家臣たちの大幅な配置換えを行います。

これによって秀次は近江に43万石という大きな領地を与えられ、一躍大大名の仲間入りをしています。

近江は京に近く、東日本と西日本を結ぶ交通の要衝でしたので、ここを任されたことで、秀吉から秀次への評価が高まっていたことがうかがえます。

秀次は八幡山城を居城とし、領国の統治を開始しました。

この時の秀次はまだ17才で、大きな領地を治めるには経験が足りないため、中村一氏、山内一豊、堀尾吉晴らの経験豊富な家臣たちが、秀吉から補佐役として付けられています。

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