高野山で隠棲する
秀次は7月10日に高野山に到着し、そこで隠棲をすることになります。
高野山は罪を犯した人物が出家してそこに登り、何年かを過ごした後に許されることが多く、この時点では、秀次はまだ「命まで取られることはあるまい」と思っていたでしょう。
客観的に見れば、政治や軍事の経験を積んだ豊臣一族の若者は秀次しかおらず、彼がいなくなってしまえば、秀吉も将来、政権の維持に困ることになるからです。
しかし秀吉の苛烈さは、秀次の、そして世の人々の想像をはるかに上回っていました。
妻や子どもたちが捕らえられる
秀次が聚楽第を出発した直後、その妻と子どもたちが捕らえられ、やがて京の北にある丹波亀山城へと移送されます。
そして秀次に対しては、身辺への人々の出入りを禁止し、監視役を配置するなどして厳重な警備を行っています。
こうして秀次が外部と連絡を取れないように措置が取られ、完全に孤立させられてしまいました。
ここに至って、どうやらただならぬ事態になっていると、秀次も気づいたことでしょう。
もしや、本気で自分を殺してしまうつもりなのかと、危惧を抱いたと思われます。
秀次をかばった武将が処刑される
秀次が高野山に押し込められて数日後には、最初の犠牲者が出ています。
秀吉の家臣に、木村重茲(しげこれ)という武将がいました。
彼は北条征伐や奥羽仕置などの戦いで武功を上げ、秀吉から気に入られて山城(京都)で18万石を領有するほどに出世していました。
しかし秀次への謀反の疑いに対し、これを弁護したことから秀吉の不興を買い、自害を命じられます。
重茲はこれに従って切腹しますが、その後で、妻と長男と娘もまた、秀吉によって処刑されてしまいました。
それ以外にも、白江成定や熊谷直之といった秀次の重臣たちが、次々と切腹して果てています。
彼らもまた秀次の無罪を主張したのですが、これを秀吉が全く受け入れないことに絶望し、責任を感じて自害したのです。
こうして秀次に先立って、彼を守ろうとした人々が死に追いやられました。
高野山に送った時点で、すでに秀吉は秀次を殺害するつもりでいたことが、この反応からうかがえます。
秀吉は、秀次の周囲の人々の話に、まったく耳を傾ける気を持っていなかったのです。
そして他の重臣たちはみな、徳川家康や上杉景勝らの大名たちの元に分散して預けられ、協力して反抗ができないようにと動きを封じられました。
こうして準備を整えると、秀吉は福島正則を高野山の秀次の元へと送ります。
「死を賜る」という命令が届く
秀次が高野山に着いてから5日目の7月15日、福島正則ら3名の使者が、兵を率いて高野山に乗り込んで来ます。
そして秀次に死を賜る、という秀吉からの命令を伝えました。
当時の常識として、いったん罪を認めて出家したものに、追い打ちで死罪を命じるのはありえないことで、しかも秀次は直前まで関白という尊貴な地位にあった存在です。
この秀吉のあまりの横暴に対し、高野山の木喰(もくじき)上人が抗議し、「寺院の中では罪人であっても保護され、死罪を命じるなどあってはならない」と主張します。
そして宗徒たちを集めて食い下がりますが、福島正則から「逆らうのなら、高野山そのものが失われることになるぞ」と脅しを受け、秀次が死を受け入れる意志を表明したことで、やむなく引き下がっています。
ここに至っては、もはや逆らったところで死を逃れられるものではなく、生き延びようとすれば多くの人に害を及ぼすだけだと、秀次は悟ったのでしょう。
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