呉への使者を務める
諸葛亮は費禕を昭信校尉に任命し、呉への使者を務めるように命じます。
呉の主である孫権は、口が達者な上に人をからかう癖があり、重臣の諸葛恪や羊衟らは幅広い才能を持ち、弁舌に長けていました。
そんな彼らは舌鋒をふるい、費禕に論戦をしかけてきます。
これに対し、費禕は正しい言葉づかいと篤実な態度で応じ、道理によって返答をしたので、屈服させられることはありませんでした。
孫権はいつも特別に、上等の酒を注いで費禕に飲ませ、彼が酔ったのを見計らい、その後で国事について質問します。
そしてまた、時勢の要務についても論じ、次々に難題を押しつけました。
費禕はそのたびに、「いまは酔っておりますから」と述べて即答を避け、退出してから質問を吟味し、順序を立て、全ての問題を箇条書きにして返答しました。
その返答は、孫権の質問に対してまったく遺漏するところがなく、孫権は費禕の人物を、高く買うようになります。
孫権に称賛される
孫権は費禕に向かって、次のように言いました。
「君は天下の善徳の士である。
必ずや蜀の股肱の臣となるだろうから、こちらに何度も来ることはできないだろう」
そして孫権は、いつも手にしている宝刀を費禕に送りました。
費禕は「臣は不才でありますので、どうして恩寵にこたえることができましょう。
しかしながら、刀は王命に反する者を討伐し、暴虐を抑えるためのものでもあります。
大王様が功業の樹立に励まれ、ともに漢室を押し立ててくださることを願っております。
臣は暗愚ではありますが、終生東方(呉)の恩顧に背かない所存です」
と答えました。
こうして費禕は呉との友好関係の維持に貢献し、同時に蜀の重臣になれるだけの力量があることを示したのでした。
昇進し、軍事にも関わる
費禕は帰国すると、侍中(皇帝の顧問官)に昇進します。
やがて諸葛亮は、北伐を実施するために漢中に駐屯しますが、劉禅に願い出て、費禕を参軍(軍事参与)にしました。
そして孫権に気に入られたので、呉への使者の役割も続けています。
230年になると、費禕は中護軍(大将軍の属官)となり、ついで司馬(軍政官)にも就任しました。
このようにして、費禕は外交と軍事の両面を担当するようになっていったのでした。
一方で、劉禅の側からは離れたのですが、側近の役割は、董允が侍中に昇進し、費禕に代わって果たすようになっています。
魏延と楊儀の間を取り持つ
この頃、諸葛亮の陣営内では、将軍の魏延と、長史(副官)の楊儀が互いに憎み合っていました。
彼らが同席し、論を争わせると、魏延は刃を振り上げて楊儀に突きつけ、楊儀は頬に涙を流す、というありさまでした。
このため、費禕はいつも両者の間に割って入り、諭し、いさめて別れさせました。
諸葛亮が亡くなるまでの間、魏延と楊儀が持っている、優れた能力をそれぞれに発揮させることができたのは、費禕が彼らの関係が破綻しないように、努めたおかげだったのです。
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