董允がまねをしてみる
後に友人の董允が、費禕にかわって尚書令になりました。
董允はそこで、費禕のふるまいをまねしてみましたが、十日が過ぎると、多くの仕事が溜まり、渋滞してしまうようになります。
なので董允は、嘆息しつつ言いました。
「人間の才能や力量が、これほどかけ離れていようとは。
とてもわしは、費禕におよびがつかない。
一日中政務にかかりきりになっても、まるで暇がないことすらあるのだから」
これらの挿話から、費禕は並外れて有能な人物だったことがうかがえます。
大将軍となり、漢中の守備に向かう
その後、蒋琬が漢中から涪に戻ると、費禕は大将軍・録尚書事に昇進しました。
この頃から蒋琬が体調を崩すようになりましたので、費禕が実質的に蜀軍を率いる立場についています。
そして244年になると、魏の大将軍・曹爽が率いる二十万余の魏軍が興勢に駐屯し、漢中に攻め入ろうとしてきました。
このため、費禕は節(独立指揮権)を貸し与えられ、軍勢を率いて防衛に向いました。
来敏と囲碁をする
この時、光禄大夫(宮廷の統括官)の来敏が費禕のもとに、送別の挨拶をするためにやってきました。
そして「囲碁をやろう」と申し出ます。
周囲では軍兵を招集するための文書が行き交い、人も馬も鎧や兜を身につけ、馬車の準備も既に完了していました。
にもかかわらず、費禕は来敏との対局に熱中し、気にする様子を見せませんでした。
すると来敏は次のように言いました。
「先ほどは、あなたを試してみようと思っただけです。
あなたはこの任務の適任者です。
必ずや賊軍を撃退することができるでしょう」
董允との馬車の話もありますが、費禕はとかく肝が据わった人物だったようです。
防衛に成功する
この時には、漢中には三万程度の軍勢しか配置されていませんでしたが、将軍の王平の提案によって、軍を前進させて魏軍の進路を塞ぎ、足止めをしました。
そうして時間稼ぎをするうちに、費禕が率いる本隊が漢中に到着したので、すでに食糧不足に陥っていた魏軍はすぐに退却し、防衛に成功します。
この功績によって、費禕は成郷候の爵位を与えられました。
魏の政変
一方で、漢中の攻略に失敗した曹爽の名声は低下し、ライバルである司馬懿との差が開いていきます。
このため、曹爽は司馬懿を閑職に追いやり、権限を縮小させようとしました。
司馬懿はこれに従うふりをして機会をうかがい、やがて曹爽が皇帝の墓参りのお供をして外出した際に挙兵し、都の門を閉ざしてクーデターを起こします。
そして曹爽に反逆の罪をかぶせて粛正し、魏の実権を奪取しました。
費禕はこの事件に対し、甲と乙の二つの論を述べ、是非を論評します。
甲論
まず、甲論では次のように述べました。
「曹爽兄弟は平凡な人間たちだったが、皇族の端くれとして、先代から後事を託されていた。
それなのに驕慢になり、分を超えて贅沢をし、いい加減な人物と付き合い、自分の党派を作って国家を乱そうとした。
このために司馬懿は奮起し、その罪をとがめて討伐し、一朝にして一味を掃討した。
その行動は与えられた任務にふさわしく、士人や民衆の期待に応えたものである」
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