劉備が帝位につくのに反対し、左遷される
220年に、曹丕が献帝から帝位を奪い、後漢を滅ぼして魏を建国すると、劉備がかわって漢の帝位につくべきではないかと、群臣たちが勧めるようになりました。
すると費詩は反対し、次のように述べます。
「殿下(劉備)は曹操親子が主上(献帝)を脅迫し、位を簒奪したため、万里の僻地に身を寄せ、士人や民衆を集め、逆賊を討伐されようとしておられます。
今、大敵に勝利を得ないうちに、まず自ら即位されるとなると、おそらくは人々の心に、疑惑が生じるでしょう。
昔、高祖(劉邦)様は、「先に秦をやぶったものが王になる」との約束を、項羽とかわしました。
そして咸陽(秦の都)を陥落させ、子嬰(秦の王)を捕らえながら、なお、項羽に王位をお譲りになる気持ちを持たれました。
それなのに今、殿下は門から出撃もしないうちに、自ら即位しようとなさっています。
愚かなる臣は、殿下のために、賛成することができません」
費詩はこの発言によって劉備の気持ちを害し、辺境地帯にある、永昌郡の従事に左遷されます。
史家の評
史家の習鑿歯は、この費詩の発言について、次のように評しています。
「そもそも創業の君主は、天下の平定を待った後、正しい地位につくものであり、後を継ぐ君主は、自分の立場をなるべく早く固め、人々の心を繋ぎとめようとするものである。
それだからこそ春秋時代、晋の恵公が朝に秦の捕虜となると、夕方には早くも子の圉が立った。
そして更始帝がまだ存命のうちに、その臣下だった光武帝は帝号を称したのである。
彼らは主上(仕えていた王や皇帝)のことを忘れ、自らの私的な利益を追求したのだろうか。
それは違う。
彼らは社稷(王室の継続)のためを考えて行動したのである。
この時、劉備は正義の兵を糾合し、逆賊(魏)を討伐しようとしていた。
賊は強力であり、災禍は甚大だった。
主上は没し、国家は滅亡し、二祖(高祖と光武帝)の霊廟は断絶し、祀られなくなった。
いやしくも、皇族の優れた人物でなければ、誰がこれを継承できるだろう。
先祖を継いで天子の位につくのは、費詩の言うような、咸陽の時とは場合が異なっており、正義によって逆賊を討伐するのに、どうして譲る必要があるだろうか。
この時にあたり、速やかに有徳の人を尊んで王統を奉じ、民衆を心から正道に立ち戻らせ、世の人々に以前からの制度を示し、正義に従う心を一つにさせ、正義にもとる者すべてを恐れさせることを知らなかったのは、暗愚にして、分別のない態度だと言っていい。
費詩が左遷されたのは、当然のことである」
この文章を三国志の注釈に加えた裴松之は、「習鑿歯の議論のうちで、この論は最も優れている」と賞賛しています。
当時、他の劉氏はことごとく衰退し、勢力を失っていました。
ですので、もっとも力を持つ劉氏となっていた劉備が帝位につき、滅亡した漢王室を継承するのは妥当な行いであり、それを批判した費詩は、世の道理を深くは理解していなかったのでした。
にも関わらず賢しらな意見を述べたので、左遷されるのは当然のことだったのだと言えます。
【次のページに続く▼】