石田三成が忍城を攻略できなかったワケ

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小田原城の落城

こうして三成たちが悪戦苦闘する中、秀吉は水攻めに固執し続け、新たに上杉景勝を忍城に向かわせ、壊れた堤防を修築するようにと命じました。

このため、現地の部隊の士気がひどく低下した、という記録が残っています。

三成たちは現場を知らない上司の命令に悩まされ、忍城の堅固さと守備隊の士気の高さに阻まれ、ついに攻略を成功させることができませんでした。

総攻撃が行われた7月5日には、北条氏の本城である小田原城が降伏し、北条征伐は事実上、終結しています。そして小田原城にいた忍城の城主・成田氏長も、秀吉に従う身となりました。

このため、氏長は使者を派遣して、守備隊に降伏するようにと説得させます。

これを受けて太田氏や成田長親らが話し合い、城を明け渡すことを決定しました。忍城以外の城は全て落城していましたので、孤立無援の中で戦いを続けても、いつかは力つきてしまうからです。それに、当主が既に秀吉に従っている以上、戦いを続ける意義もありませんでした。

こうして住民たちを含む守備隊は、忍城を退去して解散することになります。

この時に三成や浅野長政らが、「退去するに際し、持ち出せる荷物は馬一頭に乗せられる分だけだ」と告げたことから、「戦いに負けていないのに、どうしてそんな命令に従わなければならないのだ!」と守備兵たちが反発し、再び籠城が始まりかねない状況になりました。

これを聞いた秀吉が仲裁に入り、「忍城の者たちがそう言うのも無理はない。好きなだけ持ち出せさてやるがよい」と述べたことからこの騒動は収まり、忍城はついに開城しています。

どうして三成たちは忍城を攻め落とせなかったのか?

こうして3万近い軍勢を動員しながらも、ついに忍城を攻め落とせなかったことから、「三成は戦下手だ」と評判が立った、という話があります。

しかし実際には、秀吉が水攻めに固執したために攻略が難しくなったのであって、三成だけが失敗をしたわけではありません。

この話は、三成が後に天下人になった徳川家康に敗れて処刑されたため、その評判をおとしめようとして創作されたようです。

三成はこの戦いにおいて主要な役割を担いましたが、率いる軍勢は2千程度でしかなく、あくまで指揮官のひとりという立場でしかありませんでした。

大谷吉継や長束正家はほぼ同格の相手で、率いる兵士の数は同じくらいです。

そして援軍の浅野長政は彼らを上回る3千の部隊を率いており、当時の三成の地位からして、諸将を思いのままに動かせていたとは思えません。

忍城の攻略がはかどらなかったのは、包囲軍が同格の武将たちの寄せ集めの部隊で、全体を統括できる将帥を欠いていたのが大きかったと思われます。

それゆえに秀吉は作戦に介入し、子飼いの武将たちを遠隔で操作して攻略しようとしたのでしょうが、うまくいきませんでした。

そのようにしてまとまりを欠く攻撃側とは反対に、忍城の守備隊は結束が強く、武士と住民たちが一体となって懸命に戦っており、それが忍城の陥落を防いだのです。

組織は数が多いか少ないかではなく、ひとつにまとまっているかどうかで強さが決まる、ということなのでしょう。

関係者のその後

攻略に参加した大谷吉継や長束正家は、いずれも「関ヶ原の戦い」で三成に協力して敗北し、自刃して果てています。

真田昌幸もまた三成に味方し、領地を没収されてしまいました。

この戦いと直接の関係はありませんが、攻撃側は悲惨な末路をたどった者が多くなっています。

一方、忍城の城主・成田氏長は戦後に領地を没収されてしまい、会津の大名・蒲生氏郷に身柄を預けられました。

しかし娘の甲斐姫が秀吉の側室となって寵愛を受けたことから、下野(しもつけ)(栃木県)の烏山(からすやま)で2万石を与えられ、大名として復帰しています。

これは甲斐姫が、その美貌を秀吉に見初められたためだと言われています。

秀吉の側室となった後の動向ははっきりとしていませんが、1615年に大坂城が落城する際に、豊臣秀頼の妻・千姫を城外に脱出させるのに活躍した、という逸話があります。

これが事実なのかは不明ですが、甲斐姫が忍城の防衛で活躍したことから、そのような伝承が生まれたのでしょう。

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