徐晃は曹操に仕えて活躍した将軍です。
謹厳な性格の持ち主で、戦術眼に優れており、常に安定して戦功を立てています。
荊州北部が関羽の攻撃を受けた際には、包囲網を打ち破って関羽を撃退し、曹操から賞賛されました。
このため、魏の最も優れた将軍の一人に数えられています。
この文章は、そんな徐晃について書いています。
河東に生まれる
徐晃は字を公明といい、河東郡楊県の出身です。
生年は不明となっています。
初めは郡の役人となり、やがて車騎将軍の楊奉に従って賊を討伐し、戦功を立てました。
そして騎都尉(指揮官)に任命されます。
曹操に属するようになる
やがて長安で董卓が討たれると、その部下だった李傕と郭汜が権力を握るようになりました。
しかし彼らは内紛を起こし、長安の治安は乱れていきます。
このため徐晃は楊奉に、天子(皇帝)を洛陽に迎えるようにと進言しました。
楊奉はこれを受け入れ、計画を実行に移します。
そして献帝が黄河を渡って安邑に到着すると、徐晃は都亭侯に封じられました。
献帝が洛陽に到着すると、韓暹、董承、曹操といった、周辺の勢力が集まってきましたが、彼らはまとまりを欠いており、抗争が絶えませんでした。
やがて曹操は一計を案じ、楊奉を味方につけ、献帝を洛陽から自分の勢力圏にある許に移動させ、身柄を抑えようとします。
楊奉は徐晃をはじめとした精鋭を率いており、戦いには強かったのですが、知恵が乏しかったので、策に長けた曹操に、いいように振り回されるようになっていきました。
このような状況になると、徐晃は曹操に従った方がよいと判断し、そうするように楊奉を説得しました。
楊奉はいったんは徐晃の言うとおりにしようとしますが、やがて後悔し、気持ちをひるがえします。
そして韓暹とともに各地を荒らして回るようになりましたが、本拠地の梁を留守にしていた間に、そこを曹操に攻め落とされてしまいました。
楊奉はその後、徐州へと流れていきましたが、徐晃はこの時に楊奉の元を離脱し、曹操に帰順しています。
楊奉と韓暹は、後に劉備に討たれています。
曹操の元で活躍する
曹操は徐晃に兵を与え、卷や原武にいた賊を攻撃させました。
徐晃はこれらの敵を撃破し、裨将軍に任命されます。
それから呂布の征伐に参加し、呂布軍の別将である趙庶、李鄒らを攻め下しました。
また、史渙とともに河内で割拠していた眭固を斬っています。
袁紹との戦いでも活躍し、劉備と顔良を打ち破り、白馬を陥落させました。
そして延津では文醜をも撃破し、偏将軍に昇進します。
このようにして、徐晃は曹操軍の中で頭角を表していきました。
降伏の受け入れを進言する
その後、徐晃は曹洪とともに濦彊の賊である祝臂を撃破します。
また、史渙とともに袁紹の輸送隊を故市で討ち、最も功績が優れていたので、都亭侯に封じられました。
曹操が袁氏の本拠である鄴を囲み、邯鄲を打ち破ると、易陽県令の韓範が降伏を申し入れてきます。
しかしそれは偽りで、韓範は城の受け渡しを拒んで守りを固めたので、曹操は徐晃を派遣してこれを攻撃させました。
徐晃は易陽に到着すると城中に矢を射こみ、このままだと敗北することになると伝えます。
すると韓範は後悔の意を示したので、徐晃はすぐに降伏させました。
それから曹操に進言します。
「袁譚と袁尚(袁紹の息子たち)はいまだ撃破されず、降伏していない諸城の者たちは、耳を傾けて情報を集めています。
今日、易陽を滅ぼせば、明日はみな自分の城を死守するようになります。
そうなれば、河北の情勢はいつまでも安定しないでしょう。
願わくば、公(曹操)は易陽の降伏を受け入れ、それを諸城に示してください。
この話を聞けば、従おうと思わぬ者はいないでしょう」
曹操はこの提案を受け入れます。
このように、徐晃はただ戦いに強いだけでなく、戦略的な思考もできる人物だったのでした。
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