韓信 劉邦に天下を取らせた国士無双の大将軍

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酈食其を犠牲に斉を占拠する

劉邦は韓信を斉に向けて送り出した後、酈食其れきいきという説客を斉に派遣し、降伏を促します。

韓信の軍が迫っていた影響もあり、斉はこの降伏勧告を受け入れます。

しかしこの命令には問題があり、劉邦はどうしてか韓信に対し、事前に酈食其を派遣したことを知らせていませんでした。

このため斉の降伏の知らせを受けた韓信は進軍をいったん停止しますが、蒯通かいつうという弁士にそそのかされ、斉への侵攻を再開します。

その時の蒯通の言い分は以下の様なものでした。

「酈食其は弁舌だけで斉の70城を降しましたが、このままだと韓信様の功績は儒者に過ぎない酈食其に劣ることになります。
(韓信がこれまでに降した城は50城であったため)

進軍停止の命令は出ていませんし、このまま攻めこむべきです」

実際には韓信軍を恐れたからこそ斉は降伏したわけで、韓信の功績と言えなくもないのですが、韓信はこの蒯通の言葉を受け入れ、斉に攻め込みました。

そして降伏したことで油断していた斉の諸城は簡単に陥落し、韓信は斉の占拠に成功します。

だまし討ちを受けた結果となり、怒った斉の王は逃亡する前に酈食其を釜で煮殺してしまいました。

こうして韓信は、酈食其を犠牲とすることで斉を制圧しました。

しかしこの時の韓信の行動が、劉邦に咎められることはありませんでした。

もともとは劉邦が韓信に無断で、二重に命令を出したことに問題があったからです。

あるいは、劉邦は韓信が鮮やかに戦功をあげ続けることに危惧を覚え、酈食其に外交的な成果をおさめさせることで、韓信の功績を抑制しようと考えたのかもしれません。

一方で韓信は先に、劉邦に理不尽な形で自軍を奪われていましたし、蒯通のそそのかしに乗ったのは、その意趣返しの思惑があったとも考えられます。

この頃から劉邦と韓信の関係には、軋みが生じ始めていたと見ることもできるでしょう。

臣下があまりに大きな功績を上げると、やがて主君を凌駕してしまう可能性もあり、劉邦は優秀すぎる韓信の存在を、だんだんと恐れつつあった、ということでもあります。

この劉邦の恐れが、やがて韓信の身に危機をもたらすことになります。

半渡に乗じて龍且を討つ

韓信に敗れた後、斉の残党はこれまで敵対していた項羽に救援を求めます。

斉を押さえる好機と見て、項羽は配下の龍且りゅうしょ周蘭しゅうらんを将として、20万の大軍を派兵します。

周蘭は持久戦を行うよう龍且に進言しますが、龍且は韓信が臆病者だと侮っており、正面から野戦を挑みました。

これに対して韓信は、またも川を活用した作戦で迎え討ちます。

韓信は広くて浅い川の周囲を戦場として選び、決戦の前夜に川の上流をせき止めて水位を下げておきます。

そして戦場で龍且と対峙すると、機を見て韓信は退却を始めます。

もとより韓信を侮っていた龍且は疑いもなく追撃を開始しますが、これが韓信の罠でした。

龍且の軍勢の半分ほどが川を渡ったのを見て、韓信は前夜に築いておいた堤防を切り、川を増水させ、残りの半分が渡れないようにします。

川に押し流された兵もおり、戦力が半分以下になった龍且の軍勢を包囲して攻撃をしかけ、これを壊滅させました。

こうして韓信を侮った龍且は川の増水によって退路を絶たれて捕虜となり、処刑されてしまいました。

このように、韓信の戦術は

・川を活用して敵の意表をつく

・自分を侮らせて敵の油断を誘う

このふたつの原則をもって、状況に応じて柔軟に作戦を立案していたことがうかがえます。

韓信はもともとは浮浪者同然の身分で、臆病者だという風評がありました。

これらを払拭することもなく、むしろ利用して戦術に組み込めるほどに、韓信は怜悧な精神を持っていたのでした。

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