前将軍に任命される
益州に戻った劉備は、曹操を漢中で撃退し、重臣の夏候淵を討ち取り、赤壁に続いて勝利を収めます。
これによって劉備の益州支配が確立され、その勢威が高まりました。
そして劉備は漢中王となり、その生涯の全盛期を迎えます。
これを受けて、劉備は配下の者たちの地位を高め、関羽には前将軍の位を与えました。
そして節と鉞を与え、独自の判断で軍勢を動かすことを許しています。
これは事実上、関羽に曹操の打倒を命じたのだと言えます。
他には張飛が右将軍に、馬超が左将軍に、黄忠が後将軍に任命されました。
いずれも突出した武力を備えていた者たちで、劉備軍を代表する面々だったのだと言えます。
関羽と黄忠
黄忠は優れた武将でしたが、劉備軍では新参者で、益州制圧戦までは無名の存在でした。
このため、黄忠を関羽と同格の地位につけると、関羽が不満を抱くのではないかと、諸葛亮は懸念します。
それを伝えると、劉備は自ら関羽に書簡を送って趣旨を説明し、納得させました。
このように、関羽には劉備もまた、何かと気遣いをする必要があったのでした。
長年の付き合いによって、劉備は慣れていたでしょうが、関羽にはやはり、扱いにくいところがあったのだと言えます。
孫権との軋轢
荊州に進出を果たした孫権は、配下の呂蒙を荊州に駐屯させ、勢力の拡大を狙っていました。
しかし関羽の統治は恩徳と威信が行き渡っており、つけいる隙がありません。
このため、孫権は関羽の娘と自分の子どもを結婚させ、関羽を油断させようとします。
しかし関羽はその話を持ち込んだ使者を、どなりつけて追い返し、決して婚姻を許しませんでした。
これに孫権が立腹し、両者の関係が悪化します。
これより先、孫権は荊州を侵略し、劉備に領地を割譲させていました。
ですので、関羽は孫権の魂胆は、残る領地の奪取にあるのだろうと疑っていたのです。
これまでの経緯からして、関羽が孫権に気をゆるさないのは、当然のことでした。
それに娘を嫁にやれば、人質を取られるのと同然であり、そのことも警戒したのでしょう。
しかし曹操と戦う上では、表面的にでも、孫権と協調しておく必要もあったわけで、関羽のこの行動は、いささか軽率だったとも言えます。
北伐を開始する
関羽は219年になると、曹操から荊州北部を奪うべく、北上を開始しました。
そして樊城を守る曹仁に攻撃をしかけます。
すると曹操は、于禁を援軍として差し向けました。
両軍が対峙する中、樊城の付近は大変な長雨となります。
そして漢水が氾濫して、于禁の陣地が水没してしまいました。
関羽はこの好機を捉えて攻撃をしかけ、将軍の龐徳を斬り、于禁を捕虜にしています。
さらに関羽は中原の賊たちに連絡し、印綬を授けて配下に組み込み、各地を荒らして回らせました。
これによって曹操の足下が動揺し、曹操は北に遷都をしようかと考えるほどに、おびやかされます。
これは曹操が亡くなる前年のことでしたので、老いて弱気になってもいたのでしょう。
こうして関羽は、曹操をも恐れさせるほどの武威を発揮し、劉備の漢室復興の願いは、あるいは成就するのではないかと思われました。

陸遜が荊州に赴任する
関羽が躍進する中、呂蒙は重病にかかったため、荊州を去ることになりました。
するとその後任になったのは、まだ無名だった陸遜でした。
陸遜は呂蒙から関羽についてたずね、関羽には隙がなく、なかなかつけ込めなかったことを知ります。
しかし呂蒙は、陸遜がまだ無名なことを利用すれば、関羽をだませるかもしれないと助言をします。
事実、関羽は呂蒙が去って陸遜が赴任したと知ると、くみしやすしと判断し、呉に対する警戒を緩めるようになりました。
これには、陸遜が関羽に送った手紙が影響しています。
陸遜の策
陸遜は手紙の中で低姿勢を取り、関羽を持ち上げ、おだてました。
そして「私は万事に疎く、能力に余る役目を任されてしまいました。
しかしうれしいことには、恩徳と威声をそなえた方と隣合うことになりましたので、すべてをあなた様に頼りたいと願っています」と伝えました。
これは関羽の自尊心を満たすのに十分で、関羽は陸遜への警戒心を、完全に捨て去ってしまいます。
そして長江沿いに配置していた、呉への警戒部隊を移動させ、樊城の攻撃に参加させました。
この結果、荊州の南西部はがら空きとなり、呉軍が思うままに進軍できる状態となります。
関羽は文武ともに傑出した人物でしたが、何度も触れた通り、自らを高く評価しすぎるという欠点があり、それがついに、命取りになる時が来たのでした。
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