曹操は関羽を称賛する
張遼はそのまま報告をすると、曹操が関羽を殺してしまうのではないかと恐れました。
しかし報告をしないと、主君を裏切ることになりますので、「曹公は君主であり父だが、関羽は兄弟にすぎぬ」と言って嘆息し、曹操にありのままを伝えました。
すると曹操は「主君に仕えてその根本を忘れないのは、天下の義士である」と称賛し、関羽をますます気に入りました。
これには張遼も、ほっとしたことでしょう。
曹操が続いて、「彼はいつ立ち去ると思うか」と尋ねたので、張遼は「関羽は殿の恩を受けておりますので、必ず手柄を立て、それを返してから立ち去ることでしょう」と答えました。
関羽が立ち去る
そのようなやり取りがあったため、曹操は顔良を討った関羽に厚く恩賞を与え、なんとか引き留めようとしました。
しかし関羽はそれらの贈り物に封印をし、一切手をつけませんでした。
そして曹操に手紙を捧げて別れを告げ、袁紹軍に所属している劉備の元に帰るため、都を出奔しています。
曹操は追跡させず
すると曹操の側近の者たちが、関羽を追跡しようとしました。
敵対する袁紹の陣営に関羽が加わると、やっかいなことになるのは明らかだったからです。
これに対して曹操は「彼は彼なりに、主君への忠義のためにしているのだ。だから追跡をしてはならない」と述べ、取りやめさせました。
こうして曹操は関羽の忠義を成就させたわけですが、これは王者・覇者の度量がなければできないことだと、史家から称賛されています。
この挿話によって、関羽の義にかなったふるまいと、曹操の寛容さが、ともに世に知られることになりました。
関羽は死後に神としてあがめられるようになりますが、それは一度曹操に従いながらも、恩を返した上で劉備の元に帰還するという、めったに見られない忠実なふるまいを見せたことが、人々の心を打ったことが影響しているでしょう。
荊州に向かい、やがて曹操と対峙する
やがて袁紹が曹操に敗れると、劉備は南の荊州に逃れ、その地を支配する劉表の客分になりました。
そして荊州北部の新野に駐屯し、曹操軍の侵攻を防いでいます。
しかし208年に劉表が死去すると、曹操が大軍を率いて荊州に攻めこんできました。
劉表の後継者となった劉琮は、早々と降伏を決断したので、劉備は彼のもとから離れることにします。
劉備は樊城から南下し、長江を渡って曹操の攻撃から逃れようとしました。
この時に劉備は、関羽に数百艘の軍船を預けて別働隊とし、先に江陵に向かわせます。
劉備の元にはわずかな兵と張飛・趙雲が残り、曹操の追撃をかろうじて振り切って、関羽と夏口で合流します。
この措置によって、劉備は一万ほどの兵力を保つことができました。
そして劉備らは江夏太守の劉琦(劉表の長男)とも合流し、総勢で二万の軍勢を編成します。
こうして体勢を立て直した劉備は、諸葛亮の策に従い、呉の孫権に同盟を働きかけることにしました。
赤壁の戦い
諸葛亮と、呉の周瑜・魯粛らが一緒になって孫権を説得した結果、劉備と孫権は同盟を結び、曹操に対抗することになります。
そして劉備と孫権の連合軍は、赤壁で曹操軍と激突しました。
この戦いについては、史書には詳細な記述がなく、実情がはっきりしません。
結果だけを述べると、劉備・孫権連合軍は曹操に勝利し、その南下を食い止めることに成功しました。
『三国志演義』においては、この時に関羽は撤退する曹操を追撃し、追いつめたことになっています。
しかし関羽はかつての恩を持ち出されて曹操を討つことができず、見逃しています。
これは史実ではないでしょうが、これによって関羽は曹操への感情を断ち切り、いよいよ本格的に対決することを決意する、という流れになっています。
襄陽太守・盪寇将軍になる
劉備は曹操に初めて勝利した後、荊州南部を制圧し、人口の多い広大な土地を手に入れました。
そして功績があった者たちに地位を与え、関羽を襄陽太守・盪寇将軍に任命します。
関羽はこれを受け、長江の北に駐屯しました。
長江の北は曹操の勢力圏ですので、劉備が関羽を、いずれ北上して曹操を討つ際の、先鋒に任じたことになります。
こうして関羽は、劉備が漢の王室を復興させる上で、最も重要な役割を担うことになったのでした。
劉備配下の将軍の中では、関羽の能力が総合的にみて最も優れていましたし、その名声は天下に鳴り響いていましたので、妥当な措置だったと言えます。
しかし関羽にはひとつ、性格的に大きな欠陥があり、それがやがて関羽自身と、劉備に不幸をもたらすことになります。
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