関羽雲長 張飛とともに劉備に仕えた、最強武将の生涯

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劉備も敗れ、死去する

関羽が討たれたことに激怒した劉備は、大軍を率いて荊州に攻めこみました。

これには諸将が反対しましたが、それを押し切って無理に攻めこんだ結果、劉備もまた陸遜に大敗します。

それ以前に張飛は部下に殺害されており、劉備・関羽・張飛の三名は、あいついで亡くなってしまったのでした。

関羽の死が連鎖するようにして、残った者たちを死に導いたのだと言えます。

また、曹操や夏候惇かこうとん、呂蒙など、魏や呉の主要人物も同じ時期に死去しており、関羽の死が、ひとつの時代の終わりを告げる、節目になったのだという印象を受けます。

死後に神となる

こうして関羽は非業の死を遂げましたが、死後に神格化されます。

関羽は厚い忠誠心の持ち主であることを評価されていましたので、歴代の王朝にとっては、称賛しやすい人物でした。

そして人並み外れて強く、美しい髭を生やし、王室の復興のために奮闘する劉備に尽くした、という人物像は、時代を超えて、人々の心を打つ要因をもっていました。

具体的には宋・明・清などの時代に神号が贈られ、その地位が高められています。

また、関羽の死の直後に、呂蒙や曹操が病死したことから、関羽には強い霊力があったのだと信じられるようになり、それも人々の信仰心を呼び覚ましました。

孫策そんさくに殺害された于吉うきつという仙人にも同様の話があり、死後に、怨みがある相手を死なせるほどの霊力を持っていたと見なされると、信仰の対象になり得たようです。

日本における、菅原道真や平将門などの、怨霊信仰に通じるところがあります。

日本では、横浜の中華街に関羽を祭る関帝廟がありますが、華僑かきょうがいる地域には、これが必ず作られているそうです。

そして最近でも、中国や台湾で巨大な関羽像が作られており、その人気は衰えることがありません。

関羽は中国人から、よほどに好まれる要因を備えているようです。

日本でも弁慶や真田幸村など、強くて忠義に厚い人物は好まれますが、傲慢がつのったことが原因で滅んだ人物は、あまり尊敬されそうにありません。

しかし中国では、その点はさほど気にされていないようで、そのあたりの感覚の差が、日中の文化の違いを表しているのかもしれません。

関羽評

三国志の著者・陳寿は「関羽・張飛はいずれも一万人の敵を相手にできる男だと称賛され、この時代を代表する勇猛な武将だった。

関羽は曹操に手柄で報い、張飛は義気を示して厳顔げんがんを解放し、ともに国士の風格を備えていた。

しかし関羽は剛情で自信を持ちすぎ、張飛は乱暴で情を持たず、その欠点のために身の破滅を招いたのは、道理からいって当然である」と冷徹な評価をしています。