木下藤吉郎が豊臣秀吉を名のるまで

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本能寺の変

秀吉の元に信長の援軍がやってくることが知らされ、それを背景に、秀吉は毛利軍に対し、いまのうちに領地を割譲して和睦するようにと持ちかけます。

しかしその最中に重大な異変が起きたことが知らされ、秀吉は驚愕することになります。

6月2日に京都の本能寺で、信長が明智光秀に襲撃され、死亡したという知らせでした。

これを受け、秀吉はしばらく茫然自失したと伝えられています。

雑用係から数万の大軍を率いる身分にまで引き上げてもらった信長の、突然の死による衝撃の大きさは、余人には図り難いものがあります。

それでも黒田官兵衛の励ましを受けて立ち直り、信長の仇討ちをすることを決意します。

毛利氏とは信長の死を隠したまま交渉し、数カ国を織田方に割譲することと、清水宗治が切腹することで決着をつけます。

そして水上での切腹を見届けると、秀吉は抑えの兵を残して急ぎ姫路城へと撤退します。

毛利氏が信長の死を知って、追撃をかけてくる可能性もありましたので、いざという時は水攻めに使った堤を切り崩し、周囲を水であふれさせてそれを防ぐという策を施しておきました。

幸い、毛利氏は秀吉を追撃せず、全軍が姫路城に無事帰還することに成功します。

そして軍をまとめた秀吉は、京都を占拠している明智光秀を討つため、軍を進発させます。

山崎の戦い

秀吉は京都に向かう途中で、各地の信長家臣の大名たちと連絡をつけ、味方を増やしていきます。

明智光秀は信長を討つ前に、事前の工作を何もしていなかったようで、縁戚関係にある細川藤孝や、寄騎であった中川清秀・高山右近などにも味方をしてもらえず、孤立します。

戦国時代であっても主殺しは悪行であることに変わりはありませんので、明智光秀の側に正義はありませんでした。

そして正義をねじ伏せるだけの実力もなかったため、明智光秀はすぐに危機に陥ってしまいます。

その逆に、信長の仇討ちという正義を得た秀吉は、池田恒興や丹羽長秀といった武将たちの支持を得て、大軍の編成に成功します。

こうして京都付近の山崎で行われた戦いでは、4万対1万6千という情勢になり、兵力において圧倒的な差がついていました。

その戦力差を活かして秀吉は明智光秀に圧勝し、一躍、当代随一の実力者として名のり出ることになります。

信長を殺害し、秀吉に討たれた明智光秀は、秀吉が天下を取るのを助けたようなかっこうになってしまいました。

そして数百年たった今でも、裏切り者、不忠者の代名詞として語られる存在になっています。

柴田勝家との対立

明智光秀の討伐を受けて、信長の遺領の分割を決めるため、清洲で会議が開かれます。

この会議の結果、信長の跡継ぎの地位には、孫の三法師がつくことになりました。

三法師は信長の嫡男・信忠の遺児で、この時はまだ幼い子どもでした。

(信忠も本能寺の変の際に光秀に討ち取られています)

秀吉は幼子を織田家の当主とすることで無力化し、その間に織田家の勢力を自分のものにしてしまうつもりだったようです。

秀吉は信長には恩があったものの、その子孫たちにまで仕える気はありませんでした。

このあたりに、一代で仕え始めたばかりの人間を重用したことの弊害が現れています。

あるいは秀吉は、自分こそが信長の後を受け、まだ途上の天下統一事業を完遂するにふさわしい人間なのだと、そう考えていたのかもしれません。

一方で、織田家の重鎮であった柴田勝家はこの秀吉の企みを察して反発し、両者は対立関係になっていきます。

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