小早川隆景 「毛利の両川」として、元就や輝元を支えた名将の生涯について

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尼子氏を攻め滅ぼす

この時期の毛利氏は、大内氏の残党の反抗を受けつつ、東の尼子氏と西の大友氏とも戦うという、各地に敵を抱えた状況になっていました。

しかし、この頃には毛利氏が長年宿敵として戦ってきた尼子氏は、内紛によって弱体化を始めています。

毛利氏はこの状況を利用して石見の領主たちを寝返らせ、大きな利益をもたらす石見銀山の奪取にも成功しました。

そして1562年から1566年にかけて、尼子氏の本拠である月山富田城への攻撃を続け、尼子義久を降伏させてこれを滅ぼしています。

これによって山陰地方における毛利氏の勢力が大きく拡大し、さらなる隆盛を迎えることになりました。

この時に隆景は元就や元春とともに、尼子氏への攻撃に参加し、武功を立てています。

大友氏との戦い

大友氏は北九州に割拠する勢力で、大内氏が衰退した後に、博多を支配下において交易収入を得るなどして、勢力を拡大していました。

毛利氏は周防・長門を抑えたことで、北九州への進出も企図するようになり、大友氏とも戦いになりました。

大友氏の当主・宗麟は北九州で戦いつつ、毛利軍を分散させるため、土佐(高知県)の一条氏と協力し、南伊予(愛媛県南部)への侵攻を盛んに行っていました。

これによって、かつて厳島の戦いで毛利氏を助けた村上通康が危機に陥ります。

村上通康は伊予を支配する河野氏の重臣となっており、このため、元就に隆景を援軍によこしてくれるようにと要請しました。

元就は厳島の恩を返すためにこれを承諾し、隆景は伊予の戦いに介入することになります。

伊予に勢力を拡大し、村上水軍を傘下に収める

しかし援軍要請を行った村上通康がまもなく急病に倒れ、そのまま死去してしまいます。

このために毛利氏の援軍派遣は宙に浮いた格好になりますが、四国に進出し、大友氏の動きを抑えるよい機会でもあったので、隆景はより主体的にこの戦いに参入することにします。

隆景は伊予の情勢に詳しい家臣の乃美宗勝に、北九州の戦線からの帰還を命じつつ、配下の水軍衆を動かして、伊予への軍勢の展開を進めていきました。

1568年には、隆景自身が伊予に出兵し、敵対する宇都宮氏と一条氏の連合軍を討ち破り、南伊予の諸城を奪還していきました。

やがて北九州での戦いが激しくなったため、隆景は伊予から離れましたが、家臣の村上吉継や、乃美宗勝の活躍によって宇都宮氏の居城・大洲城を占拠し、伊予に確固たる基盤を築くことに成功しました。

また、これまでは河野氏の傘下にあった村上水軍を支配下に置くことになり、さらに毛利氏は水軍の実力を増大させています。

河野氏も毛利氏に従属することになり、隆景の伊予出兵は大きな成功を収めました。

こうして隆景は、単独で作戦を主導しても、大きな成果を得るだけの実力があることを証明しました。

元就が死去する

1571年になると、備前(岡山県)を狙う浦上宗景と交戦状態になり、隆景はこれを迎撃するための作戦を主導します。

この時に、敵対した村上武吉(村上通康とは別の水軍勢力)の居城を攻め落とすなど、有利に戦いを展開しますが、この年に父・元就が死去したため、継戦が難しくなって撤退しています。

一代で安芸の小領主から、中国地方の覇者にまで上り詰めた元就の死の影響は大きく、これ以後の毛利氏は、守勢に立たされることが多くなっていきます。

元就は「天下を望まず」という言葉を遺しており、このあたりが勢力拡大の限界点であると認識し、維持に努める方針をとることを示唆しています。

元就の死後は、まだ年若い当主の輝元を補佐しつつ、隆景が山陽方面を、元春が山陰方面の指揮を取るという体制が構築され、実質的にこの二人が毛利氏を差配していくことになります。

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