徳川家康はどうして小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と互角に渡り合えたのか?

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徳川家康は1584年、織田信雄とともに羽柴秀吉に戦いを挑みました。

この時の戦力は、徳川・織田連合軍が3万、羽柴軍が10万で、大きな差が開いていました。

にも関わらず、家康は小牧・長久手の戦いで勝利し、秀吉と正面から戦いながらも、敗退しなかった唯一の大名になっています。

このことが、後に家康が天下人となるための、布石として機能することになりました。

この文章では、そんな家康と秀吉の戦いについて書いてみます。

【小牧・長久手の戦いに勝利した徳川家康の肖像画】

信長の死と秀吉の台頭

本能寺の変で織田信長が死去した後、信長の子や家臣たちが、織田氏の主導権を巡って争いました。

信長の仇を討って飛躍した秀吉は、織田信雄(信長の次男)を推戴し、織田家重臣の丹羽長秀、池田恒興(つねおき)を味方につけ、有利な状況を作り上げます。

そして賤ヶ岳の戦いに勝利し、敵対した柴田勝家や滝川一益、織田信孝(信長の三男)の打倒にも成功しました。

この結果、秀吉軍は畿内と中国地方の一部、そして北陸をも制する大勢力に膨れ上がり、その権勢に並ぶ者はいなくなりました。

秀吉と信雄の対立

そうなると、もはや織田信雄を推戴する必要もなくなり、1584年の正月に、秀吉は信雄に対し、自分のところに挨拶に出向くようにと要請します。

正月に主君のところに挨拶に出向くのは、家臣の役目ですので、これには臣従せよ、という意味が込められていました。

秀吉の主君のつもりだった信雄は、この要請に強く反発しました。

実力で劣っていても、信雄からすれば、秀吉は父・信長の家臣だった男で、むしろ信長の子である自分に従うべきだ、という意識が拭えなかったのです。

こうして秀吉と信雄の関係が悪化し、争いが発生することになりました。

信雄は家康に同盟を申し入れる

秀吉からすると、かつての主君の子と争うのは外聞の悪い話ですので、なんとか信雄を懐柔し、平和的に自分の傘下に組み込もうとしました。

このため、信雄に仕える三人の家老たちに働きかけ、信雄が自分に従うように仕向けさせようとします。

しかし、信雄は秀吉と戦うことを考えており、ひそかに家康と連絡を取っていました。

この頃の家康は、三河・遠江・駿河の三ヶ国(愛知県東部から静岡県一帯)に加え、甲斐(山梨県)や信濃(長野県)も支配下に置き、その勢力が大きく増大していました。

信雄自身は尾張(愛知県西部)や伊勢、伊賀、そして美濃(岐阜県)の一部を領有しており、両者の戦力を合わせて秀吉に対抗することを考えたのです。

家康は同盟を承諾する

家康は信雄の誘いに乗り、同盟を結んで秀吉と戦う意志があることを伝えました。

家康は長らく信長と同盟関係にありましたので、その子とも同盟を結び、成り上がり者である秀吉を引きずり下ろし、天下の覇権をめぐる争いに加わってやろうと考えたようです。

この時に秀吉との戦いを決断したことが、家康が後に天下人になるための道を切り開くことになりました。

もしもここで秀吉の勢威を恐れて日和見をしていたら、家康は地方の一勢力という立場で生涯を終えたでしょう。

信雄が三家老を処刑し、開戦に至る

家康との同盟がまとまると、信雄は秀吉の手がおよんでいる三家老を処刑し、秀吉と断交します。

三家老の処刑を知った秀吉は激怒し、これを大義名分として、信雄を討伐することを決意しました。

この動きによって、ついに開戦に至ることになります。

多数派工作が行われる

家康は、信雄と同盟を結ぶだけでは、3倍以上の戦力を持つ秀吉に対抗しきれないことを理解していました。

このため、各地の大名たちに働きかけ、秀吉包囲網を形成します。

具体的には、四国の長宗我部元親や、紀州の根来衆、越中(富山県)の佐々成政、関東の北条氏政らと同盟を結び、ともに秀吉と戦うことになりました。

秀吉の領地を西と東から挟む形勢となり、この包囲網が確立されたことで、秀吉は軍勢を分散して戦わざるを得ず、圧倒的に優勢とまでは言えない状況になります。

また、北条氏政と同盟を結んだことで、家康は東からの脅威を気にせず、西の秀吉との戦いに集中できるようになりました。

このあたりの家康の外交戦略は優れており、天下の覇権を争えるだけの力量を備えていることを証明しています。

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