徳川家康はどうして小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と互角に渡り合えたのか?

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尾張で両軍が対峙する

3月13日に家康は軍勢を率い、信雄の支配下にある尾張の清洲城に入りました。

ここで信雄と合流し、3万の連合軍が形成されます。

そして美濃に領地を持つ織田家の重臣・池田恒興とも連携しようとしますが、ここで誤算が発生しました。

池田恒興は信長の乳兄弟(乳母の子ども)として育ち、母が織田信秀(信長の父)の側室になっていたなど、織田家と深いつながりがある武将です。

このため、当初は信雄に味方していたのですが、突如として秀吉に寝返り、尾張の犬山城を占拠しました。

さらに池田恒興の娘婿である猛将・森長可(ながよし)もまた秀吉に味方し、美濃の大名の多くが秀吉方になってしまいました。

信雄の人望のなさと、家康の誤算

このあたりの動きを見るに、信雄は人望が乏しく、また能力も不安視されていましたので、諸将たちから、秀吉に勝てるとは思われていなかったのでしょう。

家康からすれば、織田家の家臣たちが信雄を見捨てて秀吉についてしまったのは、意外な展開だったと思われます。

徳川家の家臣は忠誠心の強い者が多く、織田家の武将たちとは、大きく毛色が違っていました。

このため、家康は状況次第で簡単に主家を見放す織田家の武将たちの動きを、予測できていなかったと思われます。

こうして、尾張で両軍が対峙する状況になりました。

尾張で戦いが始まる

森長可は池田恒興と共同作戦を行うべく、東美濃から尾張に侵入すると、犬山城の近くにある羽黒の地に布陣します。

しかし、これは池田隊よりも突出した位置にあり、やや連携がしづらい地点でした。

このため、家康は合流前にこれを各個撃破すべく、ただちに家臣たちに攻撃を命じます。

3月16日の早朝から、家康の重臣・酒井忠次が率いる5千の兵が、森軍に奇襲をしかけました。

森長可は自ら先頭に立って奮戦し、一時は徳川軍の先鋒を押し返す働きを見せます。

しかし戦上手な酒井忠次は、側面に鉄砲隊を動かして銃撃を浴びせ、さらに自身も森隊の背後に回って包囲しようとしました。

酒井忠次の優れた戦術によって劣勢に陥った森長可は、300の死者を残して敗走しています。

こうして尾張における緒戦は、家康の素早く的確な指示と、酒井忠次の采配によって、徳川軍の勝利に終わります。

ともに防御を固め、戦況が膠着する

森長可の撃退に成功し、安全を確保した家康は、小牧山の防備を固めます。

小牧山は、かつて信長が美濃攻略の際に用いた拠点で、この時には廃城になっていたものの、城塞の遺構は残されていました。

家康はそれを活用して堀や土塁を築き、周囲に砦を設け、防衛網を確立します。

これに対抗するため、池田恒興も犬山城の防御を固め、しばらくは互いに陣地の構築にいそしみました。

3月27日には、大坂を出発した秀吉が自ら3万の軍勢を率いて犬山城に到着し、諸将と合わせて10万近い大軍を集結させています。

しかし、この時には既に互いの防御体制がしっかりと固まっており、容易に手を出せない状況ができあがっていました。

10日程度で互いに防衛網を完成させていることから、この頃には城塞の建築技術が、かなり高まっていたことがわかります。

秀吉の足下には火がついていた

秀吉軍はこの時、軍勢の数では家康と信雄を圧倒していましたが、内心では大きな焦りを感じていました。

というのも、秀吉が大坂を出発するや、紀州の根来衆が本拠の大坂城の近辺を脅かし、盛んに攻勢に出ていたからです。

留守を守る中村一氏らが奮戦し、何とかこれを防いでいましたが、できれば尾張の戦いを早く片づけ、大坂に戻りたいというのが秀吉の本音でした。

大坂城下はこの頃、まだ建設途上で防衛力が低く、根来衆に脅かされて荒廃し、盗賊が跋扈するなどして、ひどく治安が乱れています。

このあたりの情勢を見るに、家康と根来衆の連携がうまく機能し、秀吉は苦しめられていました。

この、東西から当時に攻撃を受ける問題は、この戦役を通して秀吉を悩ませ続けることになります。

【次のページに続く▼】