界橋の戦い
公孫瓚は三万の歩兵と一万の騎兵を率い、界橋で袁紹と対峙しました。
そして公孫瓚は騎兵を二手にわけ、それぞれ五千ずつを歩兵の左右に配置します。
公孫瓚は白馬に乗った義従(騎馬弓兵)を中央に配置していたことから、彼の騎兵隊は「白馬義従」という異名を取っていました。
騎射は遊牧民が得意とする戦法ですので、公孫瓚の騎兵隊には、遊牧民が数多く参加していたのでしょう。
白馬義従は、異民族との戦いにおいては連戦連勝を飾っており、「白馬を見たら戦わずに逃げろ」と彼らに言わしめるほど、恐れられていました。
袁紹はこれに対し、遊牧民との戦いの経験が豊富な、麹義という武将に先鋒を任せ、公孫瓚の騎兵隊に対抗させました。
麹義は精強な八百の兵を前衛とし、その両脇に千張の弩(機械仕掛けの強力な弓)部隊を配置して、公孫瓚の攻撃を待ち構えます。
袁紹自身は数万の歩兵を率い、後方に待機しました。
公孫瓚は敵の前衛が少数であるのを見ると、騎兵に攻撃をしかけさせます。
すると麹義の部隊は、騎兵が押しよせてもまったくあわてず、盾の下に伏せ、動きませんでした。
そしていよいよ公孫瓚の騎兵が数十歩のところまで迫ると、いっせいに立ちあがり、砂塵をあげて大声で呼ばわりながら、前進して体当たりをし、騎兵の進軍を食い止めます。
騎兵の足が止まったところに、強力な弩が放たれ、それが命中した騎兵は、必ず撃ち倒されました。
こうして公孫瓚自慢の白馬義従は麹義に敗れ、壊滅状態となります。
勢いに乗った袁紹軍は公孫瓚の陣営に攻めかかり、厳綱を討ち取り、千以上の首級をあげました。
その後も麹義は激しく追撃をかけ、公孫瓚の本営にまで到達します。
すると公孫瓚の歩兵も騎兵も、みな算を乱して逃げ散り、二度と陣営に戻りませんでした。
こうして公孫瓚は大敗を喫し、北方の支配者の地位は、袁紹が獲得することになったのでした。
劉虞と敵対し、勝利する
公孫瓚は幽州に撤退し、薊に戻ってそこに小さな城を造営します。
しかしこの城は、かねてより険悪な関係にある、劉虞の拠点と近かったため、両者の間で圧力が高まっていきました。
やがて劉虞は公孫瓚に攻めこまれるのを怖れるあまり、先手を取ろうと、軍勢を動かして公孫瓚を攻撃しました。
しかし、劉虞は統治者としては優れていたものの、軍の指揮能力では公孫瓚に劣っていたため、敗北します。
これは、劉虞が民衆に被害を与えることを怖れ、「決して放火をしてはいけない」と部下たちに戒めていたから、ということの影響もありました。
これに対し、公孫瓚の軍勢は遠慮なしに放火をしたので、公孫瓚が有利になったのです。
公孫瓚は劉虞に勝利すると、居庸に逃亡した彼を追撃して捕縛し、薊に連れて帰りました。
劉虞を処刑する
このころにちょうど、董卓が呂布によって殺害されています。
自由に行動できるようになった皇帝は、劉虞の所領を増やし、六州を治める権限を与えました。
このことから、依然として劉虞の声望が、非常に高かったことがうかがえます。
そして皇帝は公孫瓚を前将軍に任命しており、両者を和解させようと働きかけたようです。
しかし公孫瓚は劉虞に勝利したことでおごり高ぶり、彼の部下の優秀な人材を、ことごとく殺害してしまいました。
そのうえで、劉虞を市場に縛りつけて日にさらし、いたぶります。
公孫瓚は劉虞に対し、「おまえが本当に皇帝になるべき人間なら、天が雨を降らして助けてくれるはずだ」と言いました。
しかし時は夏の盛りで、終日雨が降ることはありませんでした。
これを受け、公孫瓚は劉虞を斬り殺させます。
公孫瓚はその理由を、「劉虞が皇帝を名のろうとしたからだ」と主張しました。
しかし劉虞は袁紹に皇帝に推戴されても、これを頑として断っており、公孫瓚の主張を信じる者は、誰もいませんでした。
こうして公孫瓚はついに劉虞を倒したものの、この行いによって、破滅を迎えることになります。
周囲が敵だらけとなる
劉虞の殺害が知れわたると、劉虞の部下だった鮮于輔・鮮于銀らは、幽州の軍勢を率い、公孫瓚への攻撃を開始しました。
そして燕国で人望を集めていた閻柔と共同し、烏丸族や鮮卑族に呼びかけ、数万の軍勢を編成します。
烏丸族たちは劉虞に恩恵を与えられていましたので、その仇討ちのためであれば、よろこんで参加しました。
彼らは公孫瓚が漁陽に配置していた鄒丹と対戦し、これを討ち破って鄒丹を斬っています。
袁紹もまたこの機を見逃さず、先に活躍した麹義と、そして劉虞の子・劉和に兵を与え、公孫瓚を攻撃させました。
こうして劉虞の仇として、周囲が敵だらけとなった公孫瓚は連戦連敗を重ね、易京という土地に追いつめられます。
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