公孫瓚 白馬義従を率いて戦うも、袁紹に敗れた武将の生涯

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劉和が袁術に拘束される

これに影響を受けたのが劉虞の子、劉和りゅうわで、彼は侍中じちゅう(皇帝の側近)の地位にあり、幼い皇帝に従って洛陽から長安に移動していました。

長安に連れて行かれた皇帝は、しばらくすると洛陽に戻り、董卓のくびきから逃れたいと考えるようになります。

このため、劉和に劉虞あての書簡を託し、長安を出発させました。

劉和は長安から脱走したと見せかけ、武関を通って劉虞の元におもむき、皇帝を迎える軍勢の派遣を、父に要請することになっていました。

劉和はその途中で、南陽に駐屯する袁術えんじゅつに面会し、皇帝の意向を説明します。

袁術はこれに賛同するふりをして、劉和を引き留めて出発させませんでした。

そして劉虞の軍勢を自分のところに送ってくるように、書状を送れと劉和に要求しました。

袁術はそうして劉虞の軍勢を呼び寄せ、自分のものにしてしまうつもりだったのです。

袁術はこの頃からすでに、自分が皇帝になりたいという野心を抱いていましたので、長安にいる皇帝のために働く気持ちは、持っていませんでした。

劉虞と公孫瓚がともに派兵する

劉虞は劉和からの書簡を受け取ると、数千の騎兵を袁術のところに派遣しようとします。

公孫瓚はこの話を聞くと、袁術の野心を知っていたため、これに反対しました。

ですが、劉虞は公孫瓚の意見には耳を貸さず、そのまま軍勢を送り出します。

劉虞はこれまでの経緯から、公孫瓚を信用していなかったのでしょう。

一方で公孫瓚は、自分が袁術を疑ったことが伝わり、袁術の恨みを買うことを恐れました。

このため、弟の公孫越こうそんえつに千騎を与えて袁術の元に送り出しています。

こうして公孫瓚は袁術と手を結ぶ一方で、ひそかに公孫越に劉和を捕縛させ、その軍兵を奪い取ろうと画策しました。

やがてそれが劉虞に伝わり、二人の仲はますます険悪になっていきます。

なお、この後で劉和は、袁術が野心を抱いていることに気づき、袁術の元を脱出します。

しかし北方に移動したところで、今度は袁紹に拘禁されてしまい、父の元にたどりつくことができませんでした。

袁紹は董卓に擁立されている幼帝にかわり、公正で人望のある劉虞こそが、新たに皇帝になるべきではないかと考えていました。

このため、劉和を手もとに置き、劉虞への働きかけを強めたかったのです。

このように北方の情勢は、劉虞と公孫瓚、袁紹と袁術の思惑がからみあい、複雑なものとなっていきました。

公孫越が戦死し、袁紹と敵対する

この頃に袁術は、部下の孫堅そんけんを陽城に駐屯させ、董卓軍と戦っていました。

やがて袁術と敵対した袁紹は、部下の周昂しゅうこうに命じてその陣地を奪取させます。

すると袁術は、孫堅と公孫越に命じて周昂に反撃をさせますが、勝利を得られませんでした。

それどころか、公孫越は流れ矢にあたって戦死してしまいます。

弟を失った公孫瓚は激怒し、「わしの弟が死んだのは袁紹のせいだ!」と言って、軍兵を率いて磐河ばんがにまで押しよせました。

袁紹はこれを怖れ、渤海ぼっかい太守の地位を、公孫瓚の従兄弟の公孫範こうそんはんに与え、公孫瓚と和睦しようとします。

しかし公孫範は、渤海の兵を率いて公孫瓚に助勢しました。

こうして兵力が増大した公孫瓚は、青州と徐州にいた黄巾賊の残党を討ち破り、ますます勢力を拡大させます。

そして公孫瓚は界橋にまで進軍し、さらに袁紹に圧力をかけました。

機会をつかんだ公孫瓚は、このまま一気に北方を制圧し、天下の覇権争いに名のりを上げようと、野心を燃え上がらせます。

最盛期を迎える

勢いに乗った公孫瓚は、厳綱げんこうに冀州を、田楷でんかいに青州を、単経ぜんけいえん州を治めさせ、幽州を合わせて四州に勢力を張ります。

この時に公孫瓚は、その勢力の絶頂期を迎えたのでした。

しかし袁紹もそれを黙って見過ごしたわけではなく、やがて両者の間で決戦が行われることになります。

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