公孫瓚 白馬義従を率いて戦うも、袁紹に敗れた武将の生涯

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幽州で反乱が発生する

やがて遼西からはるかに遠い涼州(西方の辺境)の地で、韓遂かんすいが反乱を起こしました。

すると朝廷は、幽州から三千の騎兵を供出して、涼州の反乱討伐に参加するようにと命じます。

涼州も幽州と同じく騎兵の産地でしたので、それに対抗するために、幽州の兵が動員されたのでした。

公孫瓚はその部隊の指揮官に任命され、涼州に向かおうとします。

そして薊中けいちゅうにさしかかったところで、張純という男が反乱を起こしました。

張純は烏丸うがん族の丘力居きゅうりききょを引き込んで兵を集め、薊中を荒らして回ります。

そして自ら弥天やてん将軍と名のり、後漢に不満を抱く者たちを吸収し、数万の兵を集めて勢力を拡大しました。

公孫瓚はこの反乱の討伐にあたり、張純らを攻撃して手柄を立てています。

その功績によって騎都尉きとい(中級指揮官)に昇進し、ついで烏丸族の貪至たんし王を降伏させたことで、中郎将ちゅうろうしょう(上級指揮官)にも任命されました。

さらには都亭とてい候の爵位をも与えられ、貴族の仲間入りをしています。

こうして公孫瓚は、反乱の討伐で功績を立て、北方の有力な人士のひとりにまで、成り上がったのでした。

劉虞が幽州に着任する

その後、公孫瓚は五、六年に渡って張純や異民族と戦い続けたものの、決定的な勝利を得ることはできず、戦況は膠着してしまいました。

そして幽州・青州・徐州・州の四州にまたがって、丘力居らが略奪を繰り返したため、被害が拡大していきます。

後漢の朝廷は事態を重く見て、劉虞りゅうぐを幽州ぼく(長官)に任命しました。

この劉虞との関わりが、公孫瓚の運命を大きく歪めることになっていきます。

劉虞に敵対心を抱く

劉虞はかつて幽州刺史として赴任していた時に、異民族に対しても公正で徳のある統治を行ったので、彼らから慕われていました。

このため、劉虞が幽州にやって来ると、丘力居らは喜び、すぐに使者を送って帰順を申し入れます。

こうして劉虞はただ幽州にやってきただけで、すぐに反乱勢力を抑えてしまったのでした。

その人望のほどがうかがい知れる事態です。

しかし、これを面白く思わなかったのが、公孫瓚でした。

自分が数年がかりで戦っても鎮められなかった反乱を、劉虞があっさりと鎮めてしまうと、公孫瓚の立場が弱くなります。

このため、公孫瓚は秘かに刺客を送り、劉虞の元に向かう異民族からの使者を、暗殺させました。

これを知った異民族たちは、間道をつたって劉虞の元に使者を行かせ、公孫瓚が妨害していることを劉虞に知らせます。

この影響で、劉虞は各地から駐屯兵を引きあげさせましたが、公孫瓚だけは右北平にとどめおき、身辺から遠ざけています。

こうして幽州では、劉虞と公孫瓚が対立する情勢となりました。

公孫瓚は異民族の使者たちを斬ったことについて、「彼らは制御しがたい存在なので、服従しなければ討伐するべきである。彼に財貨や恩賞を与えたりすれば、ますます漢王朝を軽視するにちがいない。長期的には、妥協策では解決しない」と主張し、正当化を図っています。

しかし公孫瓚が何年も討伐に成功せず、被害が拡大したから劉虞が送られてきたわけで、説得力のある主張だったとは言えないでしょう。

張純の首を得て、劉虞が太尉に任命される

劉虞の赴任によって仲間を失い、追いつめられた張純は、鮮卑族の土地に逃げ込みました。

しかしそこで、食客の王政おうせいに裏切られて殺害されています。

王政は張純の首を劉虞に差し出し、これによって反乱は完全に鎮圧されました。

そして劉虞は太尉たいい(国防大臣)という高位に任命され、ますます名声を高めています。

公孫瓚は、それをますます面白くなく思ったのでした。

なお、劉虞は富や名声を求めない清廉な人物でしたので、太尉への就任を断り、かわりに各地の優れた人物を大臣に推挙しています。

劉虞に推挙された者たちは、いずれも三公(高位の大臣職)に就任しており、劉虞の慎み深さと、人を見る目の確かさもまた、称賛の対象となりました。

このように、公孫瓚にとって劉虞は強力な競争相手だったのですが、それゆえに公孫瓚は、劉虞への敵視を強めていきます。

董卓が台頭し、奮武将軍・薊候となる

地方で反乱があいつぐ中、中央では董卓とうたくが政争を利用して、朝廷を支配するようになり、最高権力者の地位に就きます。

そして董卓は地方の有力者たちに地位を与えることで、自分の味方に引き入れようとしました。

この流れの中で、劉虞は大司馬(太尉と同等の地位)となり、公孫瓚は奮武将軍・けい候となり、それぞれに地位を高めています。

やがて袁紹が中心となって董卓討伐の連合軍が結成されると、董卓は押され気味となっていきました。

このため、董卓は都の洛陽らくように放火をして廃墟にし、長安に遷都しています。

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