公孫瓚 白馬義従を率いて戦うも、袁紹に敗れた武将の生涯

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出撃を考える

やがて199年になると、袁紹は今度こそ決着をつけるため、全軍を出撃させて易京を包囲しました。

このため、公孫瓚は息子の公孫続こうそんぞくを使者にして、袁紹と敵対していた黒山族という軍閥に救援を依頼します。

そして自身も騎兵隊を率いて出撃し、包囲網を突破して黒山族と合流しようと考えます。

そのうえで袁紹の背後で暴れ回り、包囲軍を撤退させようというのが、公孫瓚の意図でした。

大敗から数年がたって、公孫瓚はようやく積極的に動こうという気持ちになったのです。

しかし、すでに攻勢に出るための機会は、失われていました。

公孫瓚のこの計画を、長史(副官)の関靖かんせいが説得してやめさせます。

関靖は「すでに将軍の将兵は総崩れとなっており、彼らがなんとか城塞を維持しているのは、住居や老人、子供のことを案じ、将軍を主君と仰いでいるからです。

もし将軍がこれを見捨てて出撃なされば、軍の支えがなくなり、たちどころに易京は危機に瀕するでしょう。

そうなると将軍は本拠を失い、草野で孤立するはめに陥ります」と公孫瓚を説得しました。

長年にわたる籠城は人の心を萎えさせ、弱らせていきます。

このため、もはや公孫瓚が積極的な行動に出るための条件は、失われていたのでした。

救援に合わせて出撃しようとするも、敗北する

公孫瓚は遠くに出撃するのはあきらめましたが、救援がやってきたら、それに合わせて出撃し、袁紹軍を叩こうと考えました。

そして人を派遣し、息子の公孫続に手紙を送ります。

「袁紹の攻撃は鬼のように激しく、雲梯うんてい衝車しょうしゃといった攻城兵器が、我が方の楼を打ち砕いている。

日に日に追いつめられ、救援のあてもない。

おまえは張燕ちょうえん(黒山族の頭領)に、砕けるほどに地に頭を打ちつけて頼み込み、すみやかに騎兵を引きつれて戻るのだ。

易京の近くに到着したらのろしをあげよ。わしはそれに合わせて出撃しよう。

これを成し遂げないと、天下広しと言えど、お前に安住の地はなくなるぞ」

というのがその手紙の内容でした。

当時の公孫瓚が追いつめられていたことや、必死な心情が伝わってきます。

しかしこの公孫瓚の手紙が、息子の元に届くことはありませんでした。

袁紹に敗れる

公孫瓚の手紙は袁紹の斥候が奪い取り、このために計画が袁紹に知られることになります。

袁紹は手紙に書いてあった期日に合わせ、のろしをあげさせました。

すると救援が来たと騙された公孫瓚は出撃し、袁紹が配置した伏兵に打ち破られ、大敗を喫します。

このため、公孫瓚は再び城塞に取って返し、守りを固めようとしました。

しかし袁紹は地下道を掘って、その城塞を突き崩していきます。

袁紹軍は地下道を掘り進めると、守備側のやぐらの下にまでたどり着きます。

そしてやぐらの下に材木を積み上げ、それにやぐらを支えさせるようにします。

やがてやぐらの土台の半分にまで材木の高さが達すると、支柱に火をつけてそれを燃やしました。

するとやぐらはあっという間に倒壊します。

袁紹軍はこのような方法で、無数にあるやぐらを次々と破壊し、易京の堅固な防衛網を崩していったのでした。

そうして敵がだんだんと、公孫瓚の住む中央の楼閣にまで近づいてくると、公孫瓚はもはや敗北は避けられない、と覚悟を決めました。

公孫瓚は妻子をことごとく殺害した後、自害しています。

こうして公孫瓚は、天下の行く末を見定めることなく、滅亡したのでした。

公孫瓚評

三国志の著者・陳寿は公孫瓚について「公孫瓚は易京を保守したまま、なすこともなく全滅を待っていた。(他の人物についても評した後で)みな州郡を支配しながら、かえって一平民にも劣る者どもであり、論評にも値しない」と厳しい評をつけています。

公孫瓚が一平民にも劣っていた、というのはやや過剰な貶めにも感じられますが、その器に限界があったのは確かでしょう。

自分の力量を見極められず、過大な野心を抱いたことで、公孫瓚はその身を損なうことになりました。

また、憎しみにとりつかれ、人望があった劉虞を殺害してしまったことからみても、その見識が優れていたとも言えません。

部下たちへの扱いが厳しかったこともありましたが、公孫瓚は個人としての能力は優れていたものの、人望を得て、優れた人材を自分の陣営に取りこみ、勢力を拡大していける手腕は備えていなかったのでした。

最後に自覚した通り、天下の情勢をその手に掌握できるほどの人物ではなく、それゆえに袁紹に敗れて滅亡したのだと言えます。

しかしながら、自分の器の限界はそう簡単に自覚できるものではなく、実際に試して失敗してみなければ、身にしみて理解できるものでもありません。

だとすると、公孫瓚は特別に愚かだったわけではなく、少しばかり才覚があるだけの、普通の人だっただけだと見なしても、よいのではないかと思われます。