直言をするために出世できず
費禕は孟光よりもはるかに上位にありましたが、満座の中でこれほどの非難をされては、面目が保てません。
孟光が人の誤りや弱点を指摘するときは、いつもこのような調子でしたが、それゆえに蜀の重臣たちに気に入られず、爵位が上がることはありませんでした。
このように、孟光は直言をしてはばかることがなかったので、当時の人々から嫌われます。
鐔承や裴儁といった、孟光よりも若く、功績も浅かった者たちがより高い位を占めたのは、このためなのだろうと『三国志』では推測されています。
郤正との対話
後進の文士秘書郎・郤正はたびたび孟光の元を訪れ、学問上で生じた疑問について質問をしていました。
孟光はある時、郤正に皇太子・劉璿の学んでいる書物と、その性格についてたずねました。
郤正は「親に仕えて慎み深く、朝から晩まで怠ることがありません。
古の世継ぎの風格を備えておいでです。
側仕えする群臣たちに対しては、仁愛をもとにされています」と答えました。
言うなれば、教科書通りの答えでした。
孟光は「君が言うことは、民間でもよくあるようなことだ。
私が聞きたいのは、その権謀や才知がいかほどのものかということだ」と言いました。
郤正は「世継ぎの道は、父君のご意志に従い、その楽しみを極めてさしあげることにあります。
自分勝手に行動することは許されません。
そして才知は胸のうちに秘めておくもので、権謀はその時の状況に応じて用いるものですから、それがあるかないかなど、どうして予測することができましょう」と答えました。
孟光の意見
孟光は郤正が慎重な態度で、言葉を選んで話し、いい加減な議論をしないとわかったので、次のように述べます。
「わしは直言を好み、誰にも遠慮をしなかった。
いつも欠点を糾弾してきたので、世の人々から非難され、憎しみを受けてきた。
君の心を察するに、やはりわしの言葉を快く思っていないのだろう。
しかし言葉には、それを言わせる論理が存在している。
いま、天下はまだ定まっていないため、英知の働きこそが最も必要とされる。
英知の働きは天賦のものだが、努力によって獲得することもできる。
このお世継ぎのご勉学は、我々のように博識になることに努め、人からの質問を待つようなものでよいのか。
博士が、机の上にある問題用紙の中から選びとった出題に答え、それによって爵位を得るような、そんなものであってよいのだろうか。
それよりも権謀や才知を磨くような、一番大事なことにこそ、努力されるべきなのだ」
郤正はこれを聞いて、孟光の意見はもっともだと思いました。
孟光が人に直言をするのは、乱世だからこそ、気を引きしめ、厳正に物事にあたらなければならないと考えていたがゆえだったようです。
しかし孟光がそれによって嫌われていたことに変わりはなく、後にある事件によって免官となってしまいました。
そして九十余才で亡くなっています。
孟光評
三国志の著者・陳寿は「孟光は博学だった。徳行の点で称賛を受けることはなかったが、一代の学者であった」と評しています。
孟光には、彼なりの正義があって人に厳しく接していたようですが、された側からすると不快であることに変わりはなく、それゆえに最後は免官となってしまいます。
自分の中で理屈が通っていても、それが人に伝わっていなければ、あまり意味がないということなのでしょう。
一方で、乱世なのだから権謀や才知こそが必要だとする孟光の考えは、確かに正しいものでしたし、それが不足していたのが、蜀が滅んでしまったことの一因なのかもしれません。