応仁の乱と戦国時代の始まりについて

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関東に北条早雲が登場する

このような時代の変化を敏感に感じ取り、新たな勢力の構築と拡大に活用したのが、伊豆や相模(神奈川県)を支配した北条早雲でした。

彼は伊勢氏の出身であり、応仁の乱で何度か登場した伊勢貞親の親類です。

早雲は権力の中枢に近いところで生活をしていただけに、その衰退ぶりと、腐敗ぶりにもよく通じていたのだと思われます。

早雲は駿河の守護大名・今川氏の家督争いに介入し、国人衆たちの力を借りて、甥の今川氏親を当主に就けることに成功すると、駿河に領地を持つようになりました。

やがて伊豆で起きた足利氏の抗争を利用して侵攻を開始し、国人衆や民衆を味方につけて伊豆の支配権を確立し、一国を支配する大名の地位を得ています。

この時に早雲は、税率を他の土地より1割も低くし、無償で医療を提供するなどの社会福祉政策も行い、高い支持を得ることに成功しました。

以後も関東の諸勢力の抗争を利用し、巧みに浸透して相模の国人衆も取り込み、勢力を拡大していきます。

早雲の新しい統治

どの地域においても、早雲は国人衆と民衆たちに支持されることに力を入れており、それが強固な統治体制を構築することにつながると、確信していたようです。

早雲は領民の財産と、生命の保護を主眼に置いた善政を行い、室町幕府の統制を受けない、独立した勢力圏を成立させます。

これは早雲が室町幕府の乱脈の様子を目の当たりにし、もっとまともな統治を自分で行ってやろうと、そのような抱負を持った結果なのだと考えられます。

このような地元密着型の自治を行った大名は、従来の上から君臨するだけの、貴族的な守護大名と区別するために、戦国大名と呼ばれています。

守護大名の没落と、新興勢力の台頭

北条早雲をさきがけとし、各地で実力者たちがのし上がり、それぞれの土地を抑えて独自の統治体制を築くようになると、その反対に、守護大名は没落していきました。

守護大名は複数の国々の支配権を持っていましたが、それだけに個々の地域とのつながりは弱く、より住民たちに近いところにいる守護代や、国人衆に実権を奪われていったのです。

甲斐の武田氏や駿河の今川氏、薩摩の島津氏など、守護大名から戦国大名に移行できた例もありますが、ほとんどの守護大名は新興勢力によって駆逐され、将軍と同じく飾り物の存在になっていきました。

国人衆からのし上がった勢力には、中国地方の毛利氏や、四国の長曾我部氏がおり、守護代の家臣という身分から戦国大名に成り上がったのが、尾張の織田信長です。

信長の一族は、祖父の代から尾張の商港の権益を抑えており、その豊富な財力を背景に、盛んに出兵を行って肥沃な濃尾平野を統一すると、やがて京都への上洛にも成功します。

そして、ほどなくして自らが推戴した将軍の足利義昭を追放し、室町幕府を終焉させました。

これは1573年の出来事で、応仁の乱の発生から、おおよそ100年後のことでした。

応仁の乱と戦国時代の始まり

こうして見てきた通り、応仁の乱は当時の支配者層が、それぞれの権力の拡大を計って展開した、私欲に満たされた内乱であったと言えます。

なんの理想もなく、政治の変革を目指したわけでもなく、大義のない戦いを11年にも渡って継続し、各地を荒廃させたことから、室町幕府も朝廷も、民衆からもはや統治者にふさわしくない、とみなされるようになっていきました。

先に鉄器の普及についてふれましたが、それ以外にも、この時代は明との交易によって商業が発展していった時期にもあたっており、各地に富裕な商人が登場し、農村の発展と合わせ、民間の力が高まっています。

このため、商人や農村から生じる力を束ねた者が新たな時代の主役となり、戦国大名としての地位を獲得し、守護大名を駆逐することになったのです。

応仁の乱による統治の混迷と、社会の下層の興隆とが合わさって、室町時代の終焉と、戦国時代の始まりを迎えることになりました。