応仁の乱と戦国時代の始まりについて

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乱が終わる

1477年には、残存する西軍の主力であった畠山義就が河内(大阪南部)に下向して京都を去り、大内政弘は領地を安堵されて周防・長門に撤退し、西軍はその実体を失います。

いたずらに事態を悪化させていた大内政弘がなんの咎めもなく許されたのは、日野富子に賄賂を送ったためであり、新政権の腐敗ぶりも露わになっています。

権力を握った富子は、金銭欲が非常に強く、公平な統治を行う資質は備えておらず、このために政情が安定することはありませんでした。

大内政弘が去って間もなく、11月20日に幕府が主催する祝宴が開かれ、騒乱が鎮まったことが宣言され、11年にも渡って続いた応仁の乱は、ようやく終結しました。

結局のところ、主だった武将に戦死したものは一人もおらず、処罰されて領地を失った者もおらず、いたずらに疲弊を招いたばかりの、不毛な抗争であったと言えます。

結果として残ったのは、荒廃した京都と、幕府と朝廷の権威が低下し、守護大名に対する民衆からの怨嗟が高まった状況だけでした。

民衆たちは長引く戦乱によって土地を荒らされ、軍費の調達のために重税を課されており、そうした状況をもたらした守護大名に対する反発が広がり、世の中が不穏な空気で満たされていくことになります。

将軍が追放される

こうして大きな打撃を受けたものの、室町幕府はその後も何とか存続し、9代将軍となった義尚は、自ら軍勢を率い、将軍に従わない近江(滋賀県)の六角氏の討伐を行い、権勢を取り戻そうとします。

しかし戦いが長引くうちに、義尚はやがて酒色に溺れるようになり、1489年に、若くして病死してしまいました。

その後を継いだ10代将軍の義材(よしき。義視の子)は、義尚の政策を継承し、六角氏や畠山義就の子・義豊の討伐に乗り出そうとします。

しかし、これに反対する管領の細川政元と対立することになり、やがて謀反を起こされ、京都から追放されてしまいました。

ここに至って、将軍の権威は義政の時代よりもさらに低下し、完全に指導力を失うことになります。

義材と義澄の対立が発生し、将軍の衰退が極まる

代わりに義政の甥・義澄(よしずみ)が11代将軍となりますが、先代の義材は越中(富山県)に逃れ、北陸の守護大名たちが彼を擁立したことで、応仁の乱の時と同じく、将軍家は再び2つに分裂することになりました。

また、細川政元によって将軍の直属軍が解体されてしまったことで、義澄は将軍でありながらも、独自の軍事権を失ってしまいます。

この時に足利将軍家の衰退は極まり、以後は政局に翻弄されるだけの存在になり果てて行きました。

こうして将軍家や守護大名たちが、応仁の乱に続いて、終わりのない不毛な権力争いを続ける間に、日本の社会構造には大きな変化が発生しています。

山城国一揆の発生と、国人衆の興隆

変化の兆しが顕在化したのは、山城国(京都府)の南部です。

この地では応仁の乱が終結した後も、畠山政長と畠山義就が抗争を継続していたのですが、やがて重税と土地の荒廃に憤った国人衆と農民の代表者たちが、両者を追い出すために一揆を形成し、一致団結しました。
(国人衆とは、土地に根ざした小領主のことです。)

当時は鉄器の量産化が進み、価格が大幅に低下していった時期にあたっており、鉄製の優れた農具を誰もが扱えるようになり、農村の生産力が大きく向上しています。

その結果、農村は裕福になり、人口が増加し、農民でもある程度の武装をすることが可能になったのです。

このために農村と、それを束ねる国人衆の実力が増大しており、彼らが団結すれば、守護大名とも拮抗できるようになりました。

一揆衆は畠山政長と義就の追放に成功し、民衆の代表者たちによる自治が開始されるようになります。

もはや支配者であった守護大名が好き勝手に徴税を行い、私欲のための戦いを継続できる状況ではなくなり、その没落の兆しと、下に置かれていた階層が台頭する状況が、鮮明になりました。

この風潮は、下克上(げこくじょう)と呼ばれています。

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