細川勝元と山名宗全の争いが発生する
一方でこの頃には、かつては協力関係にあった細川勝元と山名宗全の間にも、対立が発生していました。
これは嘉吉の乱で義教を殺害したために、幕府の討伐を受けて滅亡した赤松氏の再興を巡り、両者の意見が対立したためです。
山名氏は赤松氏の討伐を担当し、これを成功させたことで、赤松氏の領国を我が物としていました。
しかし赤松氏が再興すると、その領地を失うことになるため、この動きに強く反発したのです。
一方で細川勝元は、自身や幕府を脅かすほどに強大な山名宗全の勢力は削減されるべきだと考えており、赤松政則を加賀(石川県南部)の守護職に任命し、赤松氏を表舞台に復帰させました。
このために、両者の対立が深まることになります。
山名宗全は畠山義就と手を結ぶ
赤松氏の再興の兆しを見て、山名宗全は自派の勢力を高めて領地を守るため、かつては敵対した畠山義就を味方につけ、周防・長門(山口県)に勢力を持つ守護大名・大内政弘とも同盟を結びました。
大内政弘は四国で細川勝元との抗争を抱えており、このために山名宗全に味方したのです。
このあたりの動きを見るに、状況に応じて敵味方の色分けが次々と変化しており、まことに乱脈な時代であったことがうかがえます。
誰もが自分が少しでも有利な立場に立てるよう、筋道の通らない、場当たり的な対応を繰り返していたのです。
こうして応仁の乱の発生に至る下地が形成されていきます。
将軍家の家督争い
こうして二大巨頭とも言える細川勝元と山名宗全がはっきりと対立するようになった頃、将軍家でも抗争が発生していました。
1464年になると、義政はまだ29才でしたが、自分の思い通りに政治が行えず、世が乱れ続けていることに嫌気がさし、将軍位を弟の義尋(よしひろ)に譲って隠居しようと考えるようになります。
弟に譲ろうとしたのは、この時には妻の日野富子との間に、男子がいなかったためです。
義尋はこれに対し、自分が出家の身であることと、まだ義政が若く、これから後継ぎが生まれる可能性があることを理由に断ります。
しかし義政が「もしも男子が生まれても僧門に入れるので、家督を継がせることはない」と起請文を送ったことで、ついに義尋は兄の後継者となることを決意し、名を足利義視(よしみ)と改めました。
義視の後見人には細川勝元が任命され、彼を支えることになります。
義政と富子の間に子どもが生まれる
しかしその翌年に、義政と日野富子との間に男子の義尚(よしひさ)が生まれ、すぐに状況が変化しました。
母となった日野富子は当然のことながら、自分の子どもが将軍になることを望み、義政の側近たちもこれに賛同するようになります。
義政はこの動きを抑えることができず、情勢がさらに不穏さを増していきました。
足利義視の排除を企むも、反撃を受ける
1466年になると、伊勢貞親ら義政の側近たちは、足利義視が謀反を企んでいる、という噂を流し、義視の追放と殺害を計画します。
しかしこの時に山名宗全は義視を支持し、義視の後見人である細川勝元もこれに協力して、義政に無実を訴えました。
山名宗全と細川勝元が手を結ぶと、義政は逆らうことができず、伊勢貞親を含む側近たちを追放処分にすることを受け入れます。
この結果、守護大名たちに屈服して側近団を失った義政の政治力は大きく低下し、義政はますます政治への意欲を失っていくことになりました。
これは義政の側近団と、細川勝元・山名宗全連合の争いであり、共通の敵が生まれたために、対立していた細川・山名の両者は、一時的に手を組んだのです。
そして実力者たちが結託すると、将軍でも屈服させられてしまうのが、この時代の室町幕府の実情でした。
こうして将軍の統制力がほとんど機能しなくなり、赤松氏への対応を巡って対立を抱える細川勝元と山名宗全の権勢が高まったことで、ついに大乱が勃発する条件が整いました。
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