応仁の乱と戦国時代の始まりについて

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上京の戦い

両軍の本格的な対決は、5月26日に始まりました。

戦いが始まったのは上京で、東軍に属する若狭(福井県西部)の守護大名・武田信賢が進軍し、御所の隣に位置する一色義直の屋敷を襲撃して占拠します。

これは義政の住居である御所を抑え、将軍家を東軍に取り込むための行動でした。

これに対し、西軍は自軍の勢力圏内にあった細川勝久(勝元の一族)の屋敷を襲撃し、これを占拠しましたが、東軍に比べれば成果は乏しく、開戦早々に不利な立場に立たされることになります。

これは「上京の戦い」と呼ばれ、応仁の乱の戦端を開く戦いとなりました。

なお、この時に起きた火災によって京都の市街地が焼き払われ、その荒廃が始まっています。

こうして劣勢に立たされた山名宗全は、状況を挽回するため、周防・長門など7ヶ国の守護である、大内政弘に上洛を要請しました。

義政は和睦を命じつつ、復権の道を探る

義政は手をつかねて状況に流されていただけではなく、両軍に和睦を命じるとともに、追放されていた側近の伊勢貞親に軍勢を率いさせて上洛させ、この機会に将軍の権威を回復させようとしています。

その一方で、細川勝元に請われて将軍の軍旗を東軍に授けており、このために東軍は自らを「官軍」であると呼称し、立場の正当性を獲得しました。

細川勝元は龍安寺に枯山水の庭園を設けるなど、文化への造詣が深く、それゆえに同じく文化人である義政は、勝元を支持する気持ちが強かったのだと言われています。

これとは逆に押しが強く、軍事に偏る山名宗全のことは、好んでいなかったようです。

こうした流れによって、東軍を足利義視が率いるようになり、西軍の山名教之(宗全の一族)の軍勢を打ち破ります。

この勢いに乗り、義政が西軍の諸大名に降伏勧告の書状を送ると、これに動揺した西軍の斯波義廉らは、自邸に閉じこもるようになりました。

さらに東軍に屋敷を襲撃されたことで、斯波義廉は降伏を考えますが、盛んに戦って東軍に痛手を与えていた、重臣の朝倉孝景の首を差し出すようにと要求されたことで、降伏を断念して戦いを継続しています。

大内政弘が上洛し、西軍が盛り返す

こうして東軍が優位を確保し、速やかに戦乱が鎮まるかと思われましたが、大内政弘が7ヶ国の軍勢1万と、2千の船団を率いて参戦したことで、西軍は勢いを盛り返します。

大内政弘の援軍を受け、畠山義就や朝倉孝景が武田信賢を撃破し、京都の中心部に陣を構えるようになると、今度は東軍が不利になっていきます。

また、東軍を率いる足利義視は、かつて自分を陥れようとした伊勢貞親が政権に復帰したことに危惧を抱き、伊勢(三重県)に逃亡してしまいました。

その後しばらくして京都に戻り、義政に伊勢貞親を排斥するようにと要請しましたが、受け入れられません。

さらに、この頃に義視と親しい武将が殺害されており、義政はかつての約束を破り、息子の義尚を擁立する方向へと傾いていきます。

これは妻の日野富子と、細川勝元が義尚の将軍就任を支持したためで、義政はこの要求をはねつけることができなかったのです。

義視が出奔し、西軍の将軍として祭り上げられる

これを受けて足利義視は再び出奔し、比叡山に登りますが、やがて将軍家の対立を知った山名宗全が義視に使者を送り、西軍に迎え入れることにしました。

そして義視を新将軍として祭り上げ、これに西軍寄りの公家も加わったことで、幕府権力が二つに分裂した状態になります。

西軍は諸大名の合議と、義視が発行する命令書を用いて統治を開始し、独自に官位の授与も行うなど、義視を中心とした政治体制が構築されました。

こうして情勢が複雑化し、乱の早期終結は望めない状況になります。

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