応仁の乱と戦国時代の始まりについて

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勝元が宗全の孫に家督を譲り、宗全は自害を計る

細川勝元と山名宗全がその気になっても、対立を続ける守護大名たちは容易に和睦に同意せず、このために戦乱を終結させることはできませんでした。

それでも細川勝元は家督を山名宗全の孫で、養子にしていた政元に譲った後、剃髪して政界から引退する意向を示します。

また、宗全は味方に戦いを継続する意思がないことを示すため、自害を図って周囲に制止される、という事件を起こしました。

このあたりの対応から、二人は自分たちが引き起こした戦乱が広がりすぎて収拾をつけられず、苦しめられるようになっていたことがうかがえます。

細川勝元と山名宗全が死去するも、戦いは続く

やがて1473年になると、3月に山名宗全が、5月には細川勝元が相次いで死去し、両軍の主将がいなくなります。

これをきっかけに再び和睦交渉がもたれましたが、今度は畠山政長と畠山義就が反対したために、うまくいきませんでした。

しかしこの頃には、山名宗全が擁立していた後南朝の皇子が放逐されており、西軍の勢いは確実に衰えを見せています。

義政が隠居し、義尚が9代将軍となる

こうして少しずつ乱が収束の気配を見せ始めると、義政は隠居して嫡男の義尚に将軍位を譲ります。

そして侍所の所司(将軍の軍事と、京都の警察権を担う役職)に赤松政則が任じられ、京都の治安が回復に向かっていきました。

また、これによって赤松氏の復権が完全に果たされたことになり、彼が和睦に反対する理由はなくなりました。

そして政所執事に伊勢貞宗(貞親の子)が就任し、新世代への交代を行うことで気分を一新させつつ、幕府の統治機関としての活動を再開させています。

このあたりの動きを見るに、義政は決して優れた政治家だったとは言えませんが、限られた権力の中で、最低限の役割は果たそうとする意識があったように思われます。

日野富子の権勢が強まる

そして畠山政長が管領に就任しますが、すぐに辞任してしまい、その地位が空白となります。

すると日野富子の兄である日野勝光(かつみつ)が管領を代行したため、息子が将軍になったことと合わせ、富子の権勢が高まっていくことになりました。

こうした状況下で、義政は新たに建築した屋敷に移り、富子や義尚と別居します。

これによって実権は富子が掌握するようになり、自由になった義政は、毎日のように宴会を開き、気ままな生活を送るようになりました。

この時に、義政の屋敷には後土御門天皇が避難していたのですが、義政と一緒に宴会に参加し、内乱が収束しきっていない中で、のんきに酒びたりになったことが世間に知られ、将軍家と、朝廷の権威が同時に低下する事態を招いています。

こうした流れが、応仁の乱の終結後に始まる、戦国時代を招き寄せることにつながっていきました。

山名政豊と細川政元が和睦する

宗全の後を継いだ山名政豊と、勝元の後を継いだ細川政元が1474年に和睦し、山名軍はついに東軍に加わるようになります。

そしてそれまで味方であった畠山義就や、大内政弘の軍勢と戦い始めました。

さらに、西軍に属していた一色義春も東軍に鞍替えし、遠江守護代の甲斐敏光も寝返るなどして、東軍の勢力が強まっていきます。

寝返りが相次いだのは、西軍の中心であった山名氏が東軍についたことにより、西軍の終焉が近いと、広く認識されるようになったためだと思われます。

1476年には、西軍に擁立されていた足利義視が、義政に帰順を申し入れました。

すると義政は義視の罪を許すと伝え、将軍家の争いはひとまず収まっています。

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