応仁の乱と戦国時代の始まりについて

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大内政弘への攻勢が強まるも、これを跳ね返す

東軍の主将である細川勝元は、西軍の隆盛は大内政弘が支えていると判断し、その領国への切り崩しをかけることにします。

勝元は北九州の大友氏などに働きかけて大内領に侵攻させ、石見(島根県)でも謀反を起こさせ、東と西から攻撃をしかけさせました。

しかし、これらの攻勢は留守居役をつとめていた陶弘護に撃退されており、大内政弘は京都での戦いを継続しています。

この結果、京都はほぼ西軍によって制圧され、戦いの舞台は摂津(大阪府)や丹波(京都北西部)など、周辺の地域へと移っていきました。

戦況が膠着する

この頃になると、戦乱は畿内のみならず、日本全国へと広がり、収拾のつかない有様になります。

このために諸大名は京都に軍を滞在させておけなくなり、領国に戻らざるを得なくなりました。

度重なる戦火によって京都の町は何度も焼き払われて荒廃しており、もはやその主導権を巡って争う意味と利益が失われます。

このため、両軍ともに戦意が低下し、以後は小競り合いが続くだけで、大きな戦いは行われなくなりました。

そして大名たちの軍勢が減少し、治安が悪化した京都では盗賊や強盗がはびこるようになり、さらに衰退が加速していきます。

この頃には足軽と呼ばれる、臨時雇いの兵士たちが幅をきかせるようになっており、決まった主君を持たない彼らが、好き勝手に暴れて回ったことも、京都の衰退に影響しています。

朝倉孝景が守護大名に成り上がり、東軍が盛り返す

朝倉孝景は斯波氏の家臣で、越前(福井県東部)の守護代(しゅごだい)を務めていた武将です。

守護代とは、守護大名の代わりに領国支配の実務を担当する役職のことを言います。

この戦乱で西軍について活躍していたため、一目置かれるようになっていましたが、1471年に、東軍はこの朝倉孝景に越前の守護職を与えて寝返らせる策を実施します。

これによって朝倉氏は守護大名となり、主君の斯波氏と同格の立場に成り上がりました。

これはそれまでの身分制度を覆す決定であり、実力がものを言う、乱世の兆しが現れたのだと言えます。

朝倉孝景の寝返りの影響は大きく、東軍は軍事的な優位を取り戻しました。

後南朝の皇子を擁立し、皇統も分裂しかける

こうして再び不利な状況におかれた西軍では、後南朝の皇子を自称する人物を擁立し、「新主」としました。

後南朝とは、かつて天皇家が二つに分裂して争った南北朝時代に存在していた、南朝の皇統を継承する家柄です。

西軍はこの後南朝の小倉宮(おぐらのみや)皇子を、天皇として担ごうとしたのです。

これは後土御門(ごつちみかど)天皇が東軍を支持していたため、その対抗措置として行われたのですが、再び南北朝の動乱が発生することを懸念した足利義視は、擁立に反対の立場を取っており、このためにやがて小倉宮皇子は放逐されることになります。

しかし、ほんの数年とは言え、再び皇統が分裂する危機が生じていたのは確かです。

和睦の機運が高まる

1472年になると、細川勝元と山名宗全の間で和平交渉がもたれるようになります。

双方とも5年も続いた戦いに疲弊し、厭戦感情が高まってきていたのです。

この時には、山名氏の領地だった播磨や備前が赤松政則に奪還されており、その復権を妨害することが難しくなり、宗全には戦う動機が失われていました。

その上、山名氏の一族では横暴な畠山義就への支援に反対する者が多く、それも和睦を求める声が高まる要因となります。

しかし赤松政則が、和睦をすると山名氏に領地を返還させられるのではないかと恐れて反対したため、この時の交渉は失敗に終わっています。

細川勝元にしても山名宗全にしても、それぞれの陣営に属する大名たちを無条件に従わせるほどの力はなく、その実態は寄り合い所帯だったのだと言えます。

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