応仁の乱と戦国時代の始まりについて

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7代・8代と続けて幼少の将軍が誕生する

こうして義教が殺害された後、7代将軍には義教の嫡男である足利義勝が就任しますが、まだ9才の子どもであるに過ぎませんでした。

しかも義勝は、就任から1年後に病死してしまいます。

続く8代将軍には、義教の三男である足利義政が選ばれ、こちらもまだ8才で、幼すぎてしばらくの間は、自分では何もすることができませんでした。

こうして将軍自身が政務を執れない状況が続いたことから、その近親者や、有力な守護大名などが政治を壟断するようになり、将軍の権威が低下していくことになります。

つまり室町幕府は、中核となるべき者の存在感が希薄になり、中央政府としての役割を果たせなくなっていったのです。

このことが、やがて訪れる大乱の原因となりました。

親政を試みる

それでも義政は成人すると、3代将軍・義満や父のように、将軍の権勢を取り戻そうと積極的な政治活動を行います。

幕府の統治機関である政所(まんどころ)や、将軍の側近団である奉行衆などの強化を計り、守護大名を抑えて親政を行おうと試みました。

義政もまた父と同じように、守護大名の家督争いに介入し、自分の意に沿う者を当主に就けることで、有利な状況を作ろうとします。

しかし、加賀守護の富樫氏の家督争いでは、管領(かんれい)の細川勝元に反対され、尾張の織田氏の紛争でも、有力な守護大名である斯波義健(しば よしたけ)の反対によって、自分の思うとおりに事態を収めることはできませんでした。

三管領

室町幕府には管領という役職があり、将軍の執事として強い権力を握っていました。

管領になれる家門は制限されており、細川氏、斯波氏、畠山(はたけやま)氏など、いずれも足利氏と血のつながりのある一族から選ばれることになっています。

このために、この三つの氏族は「三管領」と称されました。

つまり、先の政争において、義政はいずれも三管領の家柄の者たちに、その活動を阻まれたことになります。

これを受け、義政やその側近たちは、現在の管領である、細川勝元の権勢を挫くことを考えます。

畠山氏で家督争いが発生する

1454年になると、三管領の一角である、畠山氏でも家督争いが発生しました。

当時の畠山氏の当主は持国でしたが、実子がいないため、弟の持富を養子にして後継者としていました。

その後で実子の畠山義就(よしなり)が誕生したため、持富を廃して義就を後継者に指名します。

しかしこの義就は、遊女との間に生まれた子であったため、血筋がよくないとして多くの家臣たちが、畠山氏の当主になることに反対しました。

彼らは廃された持富の子・畠山政久(義就の従兄弟)を担ぎ上げ、家督を継げるようにと幕府に働きかけを行い、畠山氏は分裂した状態になります。

細川勝元と山名宗全が介入するも、義政が勝利する

この時に細川勝元と、実力者の山名宗全はともに畠山政久を支持し、畠山義就を京都から追放します。

これに対し、義政は彼らとは反対に畠山義就を支持し、畠山政久に加担した細川勝元の家臣を切腹させました。

これに反発した山名宗全の討伐を、義政が諸大名に命じると、宗全は隠居することで、討伐を受けることを回避します。

失脚した宗全が京都を去ると、義政は畠山義就と対面し、家督の継承を承認しました。

この時に義政は、初めて細川勝元や山名宗全の思惑を退け、自分の思い通りに事態を進められたことになります。

さらに1459年には、父・義教が住んでいた室町殿へと移住し、将軍親政の本格的な実現を志すようになりました。

この時点では、義政にはまだ政治に対する前向きな気持ちを抱いていたのです。

しかし畠山氏の抗争は完全には終結せず、やがて応仁の乱が発生する、直接の契機へと発展していくことになります。

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