賊を討伐する
李通はそれから郡内にいた賊の瞿恭、江宮、沈成らを討伐します。
そして徒党を徹底的に殲滅し、取った首を曹操の元に送りました。
李通の働きによって淮水と汝水のあたりは平定されたので、都亭侯に改封され、地位が汝南太守に登ります。
またこの時、賊の張赤ら五千余家が桃山に集まっていましたが、李通はこれも撃破しました。
荊州の曹仁を支援する
その後、曹操は荊州を抑え、孫権を攻撃しましたが、赤壁の戦いに敗れて撤退します。
すると劉備と周瑜が江陵を守備する曹仁を包囲し、北道を関羽に断ち切らせました。
李通は兵を率いてこれを攻撃し、馬を降りて防衛用の杭を引き抜き、敵の包囲陣の中に突入します。
そして戦いつつ前進し、曹仁のところまでたどり着き、救い出しました。
その勇敢さは、諸将の中で随一のものでした。
やがて亡くなる
李通は行軍中に病に倒れ、四十二才で亡くなっています。
死後に二百戸が追贈され、合わせて四百戸となりました。
曹丕が皇帝に即位すると、剛侯とおくりなされています。
後に詔が出されました。
「昔、袁紹との戦難の時、許と蔡の南では、人々が異心を抱いていた。
李通は義を守って迷うことなく、裏切ろうとしていた者たちを従えた。
朕はこれを甚だしく嘉するものである。
李通は不幸にして早く亡くなった。
子の李基がすでに後を継いでいるが、その勲功に報いるには足りていない。
李基の兄の李緒は、以前は樊城に駐屯して功績を立てた。
世ではその労苦を評価している。
ゆえに李基を奉義中郎将とし、李緒を平虜中郎将とし、特別の恩寵を示すものである」
子孫について
『晋書』では李緒の子(李通の孫)の李秉には優れた才能があり、尊重されたと記されています。
その官位は秦州刺史にまで登りました。
司馬昭の諮問を受けて家訓書を作り、慎み深さを大切にすることを説いています。
また、李秉の子の李重は若いころから名を知られ、平陽太守になりました。
清潔かつ高尚な人物とされて名声を得ましたが、このために晋の相国(首相)である司馬倫から取り立てられ、右司馬となります。
しかし司馬倫が乱を起こそうとしたので、李重はこのことを気に病み、やがて危篤となって任命から数日で亡くなりました。
李重には李尚と李矩の二人の弟がいましたが、いずれも太守や刺史の地位に登っています。
このようにして、李通の子孫は晋の時代に地方長官の地位を得ており、なかなか栄えていたようです。
李通評
三国志の著者である陳寿は「李通らは州郡を鎮めて守り、威と恩恵を示した」と短く評しています。
南方には他にも甘寧のように、侠気を備えた勇将がいますが、そのような人物が尊重され、力を発揮しやすい土壌があったのでしょう。
李通はそのうちの一人として活躍し、曹操に対する節義を守ったことで、歴史に名を残したのでした。