并州が平和になり、高い評価を受ける
并州の国境地帯がすっかり平和になると、人口が増加し、農業や蚕業が盛んになり、法がゆきわたって秩序が取り戻されました。
そして梁習が推挙した者の中からは、堂林のように、後に朝廷の重臣にまで立身する者も現れるなど、その施策は大きな成果をあげています。
曹操は梁習の手腕を高く評価し、関内候の爵位を授けるとともに、正式に并州刺史に任命しました。
土地の老人たちも「自分たちが聞き知っている範囲で、梁習以上の刺史はいない」と褒めそやします。
こうして梁習は、政治家として確固たる名声を確立したのでした。
冀州を統治する
その後、213年に并州が冀州に合併されると、梁習は議郎・西部都督従事に任命され、冀州の部族民たちをすべて統括しました。
この時期に梁習は、屯田都尉を二人設置し、人夫六百人を従わせ、街道の道筋に作物を植え、移動する人と牛の食料にあてるようにと上奏しました。
このような細やかな施策によって、冀州の発展を促していったのでした。
その一方で、この時期にもまた、異民族の成敗を行っています。
鮮卑の育延を討つ
この頃、鮮卑族の育延という者が勢力を持ち、冀州の役所でも恐れられていました。
育延はある朝、鮮卑の騎兵五千を引きつれて冀州に向かい、梁習に使者を送ってきます。
そして交易を行いたいと申し入れてきました。
これを拒めば怨みを買うことになり、かといって州庁がある都市にまで招き入れると、そこで育延の騎兵が略奪をする懸念があったので、梁習はどう対応するかを考えました。
そして、結局は承諾することにし、みずから出向き、空き城の中で育延と会うことにします。
梁習は冀州の郡県に命じ、役人と軍隊を引きつれてそこに向かいました。
鮮卑族に包囲される
梁習は育延の一行と会いますが、まだ交易が成立しないうちに、市場を管理する役人が、育延の部下の一人を捕縛します。
育延の騎兵たちはこれに驚き、馬に乗って弓を引き絞り、梁習を何重にも包囲しました。
官吏たちはこれに怖れおののき、身動きもできない状態になります。
しかし梁習はまったく動じず、当の役人を呼んで事情をたずねました。
すると育延の部下が、人を傷つけたので、捕縛したことがわかります。
このため、梁習は通訳を送って育延を呼び出しました。
育延を斬る
育延がやって来ると、梁習は彼をとがめ、「おまえたち蛮人が自分から法を犯したのだ。
役人はおまえに害を与えたわけではないのに、どうしておまえは騎兵を使って人々をおびやかすのか」と糾弾します。
そして梁習は有無を言わせず、育延を斬ってしまいました。
すると他の鮮卑族の者たちは肝を潰し、梁習に復讐しようとする勇気をなくします。
これ以後、梁習の果断さを恐れて乱暴を働く異民族はいなくなり、冀州にも平和が訪れました。
このように、梁習は交易に応じる姿勢を見せたものの、法を守らぬ者に対しては、断固たる態度を示したことで、異民族を屈服させたのでした。
先の并州の際にも、交渉に応じる者は許し、そうでないものは容赦なく討伐し、平和を創出しました。
梁習は状況に応じて硬軟の策を使い分けられる、優れた人物だったのだと言えます。
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