魯昔が謀反を起こす
こうして梁習が鮮卑族を服従させたことが、後に起きた事件でも役立つことになりました。
217年に、曹操は漢中から帰還すると、従軍していた烏丸族の王・魯昔を池陽に駐屯させ、敵の侵入に備えさせます。
しかし魯昔には愛妾がおり、彼女に会いたい気持ちと、このままずっと異郷に留め置かれることになるのではないかという懸念が募ったことから、曹操に謀反を起こしました。
魯昔は池陽の城を密かに脱出すると、五百騎を率いて冀州に立ち寄り、部下たちを山あいの谷間に留め置きます。
そして愛妾がいる晋陽の街を訪ねました。
やがて魯昔は彼女を連れ出すと、部下たちのところに戻ろうとします。
梁習が対応する
池陽に駐屯していた曹操軍は、魯昔が逃げ出したことに気づいたものの、彼は弓の名手だったので、みなが怖れを抱き、追跡する者はいませんでした。
梁習はそこで従事の張景に命じ、鮮卑族を募って魯昔を追跡させます。
烏丸と同じく、騎馬民族である鮮卑は、魯昔を恐れることはありませんでした。
魯昔は馬に愛妾を乗せており、二人乗りだったので速度が出ず、張景と鮮卑族は、彼が部下に合流する前に追いつくことができました。
そして容赦なく魯昔を射殺し、謀反の芽を摘んでいます。
曹操は魯昔が謀反を起こしたことを知ると、北方の国境が荒らされるのではないかと懸念していました。
するとその時、梁習がすでに彼を討ったという知らせが届いたので、大変に喜びます。
そして梁習が鮮卑族をあらかじめ手なずけておき、幾度にも渡って優れた策を立てたことを褒め称えました。
曹丕や曹叡にも厚遇される
220年に曹操が亡くなり、曹丕が魏の皇帝になると、行政区画が変更され、并州が復活します。
梁習はこの時、再び并州刺史となり、申門亭候の爵位と、百戸の領邑を与えられました。
そしてその治績は「天下第一だ」とまで称賛されます。
【曹丕は梁習を列侯に取り立てた】
225年には鮮卑族の軻比能を討伐し、さんざんに打ち破ったと記録されており、老いてもなお軍事に秀でたところを見せています。
そして228年になると、中央に召喚されて大司農(農務大臣)に任命されました。
梁習は二十年以上も北方の地に赴任していましたが、清廉に身を慎んでいたので、暮らしは貧しく、地方の高価な物産を我が物とすることはありませんでした。
このため、二代皇帝の曹叡は、梁習に格別のはからいをし、手厚い礼遇と贈り物を与えています。
こうして晩年まで高い評価を得たままで、梁習は230年に逝去しました。
子の梁施が後を継いでいます。
梁習評
三国志の著者・陳寿は梁習を他の地方官たちと一緒に、次のように評しています。
「漢末より以降、刺史が諸郡を統括し、都の外にあって行政を執り行った。
先の時代にはただ監督するだけだったが、それと同じではない。
太祖(曹操)が国家の基礎を作り、魏の帝業が終わるまでの期間において、梁習らは評判を立てられ、それにふさわしい名実を備えていた。
みな仕事の機微に熟達し、威厳と恩恵がともに示された。
だからよく万里四方の地を引きしめて整えることができ、後世に語られるほどの存在になったのである」
梁習が担当したのは、異民族と境を接する地域だっただけに、統治には独自の困難さがありました。
梁習は政治家として優れているだけでなく、軍事的な能力も兼ね備えており、このために状況に応じた適切な処置をとることができました。
并州に赴任する以前に、文官と武官の両方の官職についていましたが、そのあたりの経歴が、曹操が梁習を并州の刺史に任命した要因になったのでしょう。
梁習は并州や冀州で治績を挙げ、その期待に見事に応えたのだと言えます。