劉璋 劉備に益州を奪われた、善良なれど無能な人物の生涯

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荊州に移り、病死する

劉備は降伏を受諾すると、劉璋に振威将軍の印綬と、財産を返却しました。

劉備は劉璋をだまして益州を奪い取りましたので、良心の呵責を感じていたのでしょう。

劉備は荊州南郡の公安こうあんに劉璋を移動させ、そこに住まわせます。

やがて219年になると、南郡を統治していた関羽かんうが孫権に敗れ、劉璋の身柄は、呉の勢力圏に取りこまれることになりました。

すると孫権は劉璋を召し出して益州牧に任命し、荊州と益州の境界に駐屯させます。

孫権はあわよくば、益州をも奪ってしまおうと考えていたのです。

そのために劉璋は引っぱり出されたわけですが、再び気苦労の多い立場に立たされたせいか、間もなく病死しています。

子が呉と蜀に仕える

劉璋が亡くなると、孫権は次男の劉せんを益州刺史に任命し、交州と益州の境界に駐屯させました。

劉備が亡くなると、益州南部で反乱が起きましたので、それに乗じて益州を脅かす計画を立てたのです。

しかしその後、諸葛亮しょかつりょうが益州南部の反乱を平定すると、手出しをするのが難しくなったため、劉闡は呉に呼び戻されています。

一方で長男の劉じゅんは、龐羲の娘と結婚しており、その縁で蜀に仕えることになります。

劉備が益州を制すると、劉備に従った龐羲は、劉循を成都に留めておくようにと進言しました。

劉備はやがて劉循を奉車中郎将に任命し、自らの側に仕えさせます。

かつての支配者の子を側近にするのは、劉備の益州支配を正当化する上で、一定の効果があったと思われます。

こういった事情によって劉璋の子どもたちは、呉と蜀に別れて仕えることになったのでした。

劉璋評

三国志の著者・陳寿ちんじゅは劉璋を次のように評しています。

「劉璋は英雄としての能力もないのに、領土を占めて世の中を混乱させた。

柄にもない地位に就き、領地を狙われるはめになったのは、自然の道理である。

彼が土地や官位を奪い取られたのは、不幸とは言えない」

陳寿が言うとおり、劉璋は益州の支配者になって以来、次から次へと反乱を起こされており、とても統治者として優れていたとは言えません。

部下を統制することができず、民衆の怨みを買うなどしており、英雄からは遠い人物だったと言えます。

一方において、『漢紀』を記した張はんという歴史家は、次のように劉璋を評しています。

「劉璋は愚かで脆弱な男だったが、善言を守っている。

宋のじょう公や徐のえん王と同じ種類の人間で、無道の君主というほどではない」

宋の襄公は春秋時代の君主で、強大なと戦った際に、敵が川を渡りきるのを待ち、有利な状況で開戦しなかったために、敗北した人物です。

これは「宋襄のじん」という故事として知られています。
(「身の程知らずの情けをかけること」を意味します。)

また、徐の偃王は、楚の攻撃を受けた際に、人民を戦わせるのに忍びなく、戦わずして逃亡した人物です。

そんな偃王を慕い、数万の徐の民が、後を追って移住しています。

いずれも情け深く、それゆえに戦いには向かない人々でした。

劉璋も決して悪人ではなく、平和な時代に生まれていれば、人々から好かれて一生を終えられる性格の持ち主でした。

それが乱世に生まれついたために、様々な苦難に出会うことになります。

劉備に益州を奪われましたが、それによって劉璋は、領地を保つ努力をせずにすむようにもなりました。

ですので、劉備に降伏した時には、身にそぐわない重荷を下ろせたことで、内心では、ほっとしていたかもしれません。