周瑜は孫策や孫権に仕えて活躍した将軍です。
孫策の時代には彼を補佐し、揚州の制覇に大きく貢献しました。
そして孫権の代には、大軍を率いて攻めこんで来た曹操を赤壁で撃破し、三国時代が開かれる契機を作り出します。
その後、荊州南部を攻略し、曹操を打倒する戦略を立てますが、実行に移そうとした矢先に急死してしまいました。
この文章では、そんな周瑜の生涯を書いています。
廬江に生まれる
周瑜は字を公瑾といい、廬江郡舒県の出身です。
生まれたのは175年でした。
父の周異は洛陽県令を務め、一族の中には三公(最高位の官職)のひとつである太尉に就任した者もいます。
つまり周瑜は名門の生まれだったのでした。
孫策と知り合う
周瑜がまだ子供のころ、寿春には孫策という英才がいる、という評判が聞こえてきました。
はたしてどんな少年なのかと気になった周瑜は、寿春に行って孫策を訪ねました。
すると二人はすぐに意気投合し、友情を結ぶようになります。
その堅い絆は「断金の交わり(金属を断ち切るほど強い関係)」だと言われたほどでした。
この頃、孫策の父・孫堅は董卓を討伐するために不在でしたので、周瑜は舒に移住して、自分の側で暮らすことを勧めました。
すると孫策はこれに同意し、父の承諾を得て舒に移ります。
周瑜は自宅の、道をはさんだ南側にある大きな屋敷を孫策に譲り、そこに住まわせました。
そして座敷に通って彼の母親に拝謁し、生活に必要な物は互いに融通しあって暮らします。
このようにして、周瑜は少年のうちから、孫家と家族ぐるみの付き合いをしていたのでした。
この時に孫権を含む、孫策の弟たちとも関わりが生まれていたことでしょう。
孫策は袁術に仕え、しばし別れる
その後、孫堅は戦乱の中で、袁術に従うようになります。
そして袁術の命によって荊州の劉表を攻めましたが、返り討ちにあって戦死してしまいました。
すると孫策は、袁術に接収された父の軍を取り戻すため、寿春に本拠を置く袁術に、仕官を申し入れます。
こうして孫策は舒から去り、周瑜としばし別れることになりました。
歴陽で再会する
その後、孫策は袁術の元で戦功を立てるものの、なかなか父の兵を返してもらえませんでした。
このため、親類の呉景と孫賁を支援することを名目に、袁術の元を離れます。
そして歴陽まで進軍すると、使者に手紙を持たせ、周瑜に出撃したことを知らせました。
周瑜はその頃、叔父の周尚が丹楊太守に任じられていたので、挨拶をするために出向いていました。
しかし孫策からの手紙を受け取ると、すぐに手勢を率いて駆け戻り、孫策を出迎えます。
すると孫策はおおいに喜び、「君と再び出会うことができて、願いがかなったよ」と言いました。
孫策は袁術の元を離れたとき、千人しか兵を率いていませんでしたが、周瑜のように駆けつける者が多数おり、五、六千にも膨れ上がります。
周瑜はそのまま孫策に従い、彼とともに、揚州南部を攻略するために戦い始めました。
劉繇を撃破する
この頃の揚州は北を袁術が抑え、長江を挟んだ南側を劉繇が抑えていました。
孫策は劉繇を撃破してその領地を手に入れ、独立しうるだけの根拠地を得るために行動を開始します。
孫策と周瑜はまず劉繇の前線基地を攻撃し、すぐに陥落させました。
そして長江を渡って秣陵を攻め落とし、劉繇軍の薛礼と笮融を打ち破ります。
さらに劉繇の本拠である曲阿に迫ると、劉繇は防衛をあきらめて逃げ出しました。
それまで劉繇は何年にもわたって袁術軍の攻勢を跳ね返していましたが、孫策と周瑜が来ると、わずかな期間で打ち破られ、勢力を失いました。
それほどに、孫策たちの勢いはすさまじかったのです。
孫策は大軍を得て、周瑜は丹楊に向かう
孫策は劉繇に仕えていた者たちを許し、軍に志願すれば家族は無税にすると通達したので、すぐに数万の軍勢を集めることができました。
すると孫策は「これだけの軍勢があれば、私ひとりで呉郡と会稽を手中に収めることができるだろう。君は戻って丹楊の守りを固めてほしい」と周瑜に告げます。
丹楊は精兵を輩出する土地柄で、物資も豊富であり、このために重要な軍事拠点となっていました。
ですので孫策は、そこの確保を周瑜に頼んだのです。
袁術の元を離れ、孫策に正式に仕える
周瑜は丹楊に戻りましたが、やがて袁術がいとこの袁胤を、新たな太守として送り込んできました。
このため、周瑜はいったん叔父の周尚とともに、寿春に戻っています。
すると袁術は、周瑜を部将として自分の側で働かせようとしました。
袁術はこの頃すでに皇帝を名のっていましたが、周瑜はやがて袁術は破滅するだろうと予測します。
なので居巣の県令になりたいと申し出て、それを名目に袁術の元を離れました。
周瑜は居巣を手中に収めてから呉に向かい、孫策のところに戻ろうとします。
すると孫策は自ら周瑜を出迎え、建威中郎将に任命しました。
これまで孫策と周瑜はともに袁術の配下で、その範囲内で協力しあっていたのですが、この時から正式に、周瑜は孫策の臣下となります。
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