魯粛と周瑜の反論
これを聞くと、その場にいた魯粛が反論を述べ、意見が降伏に傾くのを食い止めます。
魯粛は周瑜が呉に誘った人物で、剛毅な性格を備えていました。
周瑜はこの時、役目によって外出しており、議論の場にいなかったので、魯粛はすぐに周瑜を呼び戻すことを孫権に勧めました。
そして周瑜が駆けつけると、魯粛と意見を交わし、同じ考えであることを確認してから、協力して孫権に次のように主張しました。
「曹操は漢の丞相の名をたてにしていますが、実際は漢にあだなす賊徒です。
将軍(孫権)さまは、数千里の領地と精鋭を持っているのですから、曹操を討伐なさるべきです。
曹操は自ら死地に踏み込んで来たのですから、これをおとなしく迎え入れる必要はありません。
曹操は北方の領地が安定していない上に、西では馬騰や韓遂が不穏な動きを見せており、内憂を抱えています。
そして中原の者たちが馬を捨てて船に乗り、呉に勝負を挑むのは、得意を捨てて不得意に取り組むようなものです。
更に今は寒さが厳しいので、馬にはまぐさが乏しく、兵士たちは慣れない気候と風土にさらされており、必ずや疫病が発生するでしょう。
これらはみな、兵を用いる場合には避けなければならない禁忌ですが、曹操はその全てを犯して事を推し進めています。
ですので将軍さまが曹操を捕虜にするのは、今日明日にでも実現できるほど、たやすいことです。
願わくば、私に三万の精兵を預け、夏口まで兵を進めさせてください。
そうすれば、曹操を打ち破ってご覧に入れます」
孫権の答え
孫権はこれを聞くと、「おいぼれの悪漢である曹操が、皇帝を廃して自らが帝位につこうとしているのは、ずっと以前からわかっていることだ。
ただ袁紹と袁術、そして呂布と劉表と私をはばかり、それを実現できないでいた。
いまでは彼らはみんな滅んでしまい、私だけが残っている。
ゆえに私とおいぼれは、両立できない情勢にある。
あなたは私に攻撃をしかけるべきだと言われたが、それはまったく私の思うところと同じだ。
これはきっと、天があなたを私に授けてくださったということなのだろう」と述べ、曹操との対決を決意しました。
孫権の決意
孫権はもともと、曹操と戦うべきだと思っていたのですが、群臣たちが同意しないため、決定を下せないでいたのでした。
そこに周瑜と魯粛が現れ、開戦を主張したため、これをよしとして、戦うことを呉の方針として掲げます。
孫権はこの時、刀を抜いて机を斬り捨て、「これ以上、曹操を迎え入れるべきだなどと主張する者は、この机と同じになる」と宣言しました。
この会議の後、孫権は周瑜と二人だけで話をします。
そして周瑜に、既に出撃準備がすんでいる三万の兵を率いて出陣し、程普とともに先鋒を務めるように命じました。
そして「自分はなるべく多くの物資を用意して送り届け、あなたを支援する。
もしもあなたの意図通りに事が進まなければ合流し、私が自ら出陣をして曹操と決着をつけよう」と述べました。
こうして周瑜は、曹操の大軍との戦いにおいて、最前線に立つことになりました。
劉備と共同する
一方、劉備は長坂で敗れた後、軍勢をまとめて南に向かっていましたが、やがて荊州の情勢を探っていた魯粛と出会います。
すると魯粛は劉備の腹心である諸葛亮とともに、孫権と同盟を結び、曹操に対抗することを提案しました。
これに同意した劉備は、夏口に移動して呉と連携をとりやすくなるようにしつつ、諸葛亮を呉に派遣しました。
孫権からしても、強大な曹操に対抗するには、劉備の戦力が必要でした。
このため、間もなく同盟の話がまとまると、孫権は周瑜に連絡し、劉備と共同して曹操を迎撃することにします。
赤壁の戦い
こうして曹操対孫権・劉備連合という構図ができあがると、両軍は長江ぞいの赤壁で遭遇しました。
このとき、すでに曹操軍の内部では疫病が発生しており、戦う前からすでに不利な状況となっています。
このあたりは周瑜が予想した通りで、そのうえ荊州の軍勢はまだ降伏したばかりだったので、曹操に完全には服従していませんでした。
この時の曹操の進軍には、何かと無理があったのですが、大軍の威をもって圧迫すれば勝利できるだろうと、曹操は驕っていたようです。
曹操軍はおおよそ20万で、孫権・劉備連合は4〜5万程度の兵力でした。
しかし曹操軍は数多くの不利を抱えていたため、初戦で敗れて後退し、長江の北岸に陣を構えます。
黄蓋の策
これに対し、周瑜たちは長江の南岸に陣を構えました。
すると歴戦の部将である黄蓋が、周瑜に作戦を提案します。
「敵は多勢で、こちらは少数ですので、持久戦をすると不利になります。
ゆえに、こちらから積極的に攻撃をしかけましょう。
敵の陣容を見ますと、彼らの艦は密集し、互いに船尾と船首がくっつき合った状態になっています。
ですので、これに焼き打ちをかければ、船から船へと火が燃え移り、敗走させることができるでしょう」
周瑜はこの案を採用し、数十艘の船を選び、燃料として薪と草を積み込み、油を注いだ上に、幔幕でおおいをかけました。
そして牙旗(将軍旗)を立て、将軍が乗っているかのように見せかけます。
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