龐涓との対決
こうして孫臏は実戦で名をあげましたが、それから13年後に、彼の両足を奪った龐涓と対決する機会が訪れました。
大敗から立ち直った魏は、今度は南にある韓に攻め込みましたが、またもや斉に対し、韓から救援要請が届きます。
すると斉は以前と同じく田忌を将軍にし、孫臏を軍師にして軍勢を派遣しました。
そして再び魏の首都を目指して行軍を開始します。
韓を攻めていた将軍は、かの龐涓でしたが、この知らせを受けるや、韓から引き上げて魏に戻ろうとしました。
その頃には既に、斉軍は国境を越えて魏に侵入しており、このために再び、魏の国内で戦闘が発生することになります。
孫臏の策
孫臏はこの戦いにおいて、再び田忌に献策をします。
「魏や韓、趙の者たちは勇ましくて気が強く、斉の士卒は臆病だとして侮っています。ですので、その条件を利用して勝利を得ることにしましょう」と、孫臏はまず作戦の方針を語ります。
田忌は斉軍が臆病だと言われ、内心では面白くなかったかも知れませんが、孫臏の言葉にうなずきました。
そして孫臏は具体的な作戦を提示します。
「兵法に『利をむさぼろうと百里の道を駆ける場合には、優れた将軍でもつまづく。五十里の道を駆ける場合には、到着するのは半分の軍勢である』とあります。
この原理を元に、魏の軍勢を奔走させ、戦いに勝利しましょう。
我が軍が魏に入りましたら、10万人分のかまどを作って下さい。そして翌日は5万人分を作り、その次の日は3万人分と減らしていくのです」
またも田忌が孫臏の作戦通りにすると、果たして龐涓は騙されたのでした。
龐涓が斉軍を追撃する
龐涓は斉軍のかまどの数が減っていくのを見て、「臆病な斉人は、魏に侵入したとたん、戦いが怖くなって逃げ出し、数が減っているのだろう」と判断します。
そして「わしは斉の士卒は臆病だと知っていたが、我が領分に入ってたったの3日で、半分以上が逃亡しているぞ」と言って喜びました。
龐涓は歩兵を後に残し、精鋭の騎兵のみを従え、昼夜兼行で斉軍への追撃を開始します。
このように、孫臏はかまどの数を減少させることで、「斉軍は兵士の逃亡によって崩壊しかけている」と誤認させ、龐涓が小数の軍勢で追撃をしかけてくるように仕向けたのでした。
実際に数が減ったのは斉軍ではなく、魏軍の方でしたが、龐涓は斉軍が臆病だという先入観を持っていたので、そのトリックに気がつかなかったのです。
兵法には、『敵地に乗り込めば、兵士たちの結束は自然と固くなる』とあり、実際にはそう簡単に、侵略する立場の兵士たちが逃げ出すものではありませんでした。
そのあたりの基本を見失ってしまったところを見るに、龐涓は確かに孫臏よりも劣っていたようです。
木の幹に文字を書かせる
孫臏は敵の行軍の速度を予測し、夕方になると馬陵のあたりで追いついてくるだろう、と見通しを立てました。
馬陵は道が狭く、両側は険しい地形になっていましたので、伏兵を配置するのに絶好の地点でした。
孫臏はそこで大木を切り倒させ、幹を削って白い木の肌を露出させ、「龐涓はこの木の下で死ぬ」と文字を書かせます。
そして斉軍の中から、弓が得意な者たちを選び出し、一万の弩を道の両脇にひそませます。
孫臏は「日が暮れ、たいまつのあかりが見えたら一斉に発射せよ」とあらかじめ命じておき、龐涓が到着するのを待ちました。
そして夜になると、予測通りに龐涓が到着します。
龐涓は道の脇にある木の幹が削られて白くなっており、なにやら文字が書かれているのに気がつきました。
龐涓はそれを読もうと思い、部下に命じてたいまつをつけさせます。
すると文字を読み終えないうちに、矢が雨のように降り注ぎ、魏軍は大きな被害を受けて混乱に陥りました。
そして彼らは同士討ちを始めてしまい、龐涓は指揮をとるどころではなくなってしまいます。
龐涓はこうして孫臏に大敗を喫し、知恵も尽き果てて嘆息しました。
「これであやつめに名を挙げさせてしまったな」と言ってから、龐涓は自ら首をはねて死亡しました。
こうして龐涓を自害に追い込んだ斉軍は、勢いに乗って魏軍を壊滅させ、魏の太子・申を生け捕りにして帰還しています。
この大きな成功によって、孫臏の名は天下にとどろくことになりました。
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