蘇則は西方で太守を歴任し、反乱の鎮圧や、統治の改善に功績を立てた人物です。
そして曹丕の側近にもなりますが、剛直な性格で、曹丕をいさめたことが災いして、やがて疎まれるようになってしまいました。
このために左遷されますが、任地に着く前に亡くなります。
この文章では、そんな蘇則について書いています。
扶風に生まれる
蘇則は字を文師といい、扶風郡武功県の出身です。
剛直で、悪を憎む性格の持ち主でした。
蘇則は若いころから学問と品行によって、世に名を知られます。
そして孝廉や茂才に推挙され、招聘されますが、いずれも受けませんでした。
やがて平民から起用され、酒泉の太守となります。
そして安定や武都の太守にも転任しますが、どこにおいても高い評判を得ました。
安定の富豪に謝礼をする
蘇則の家は名家でしたが、興平年間(一九四年〜五年)に長安付近が混乱した際に、飢えに苦しめられ、北地に避難しています。
そして安定に旅をし、現地の富豪である師亮を頼りました。
しかしよい待遇が受けられなかったので、蘇則はため息をついて言います。
「天下はいずれ平穏を取り戻していくだろう。そうなったら必ず私はここに戻って郡太守となり、俗な者たちをくじいてやろう」
この後、蘇則は友人とともに郡の南にある太白山の山中に隠れ住み、読書を楽しみとして暮らしました。
やがて自身の宣言通り、太守になって安定に戻ってくると、師亮らは復讐されると思ったのか、みな逃げ出そうとします。
蘇則はこれを聞くと、先に人を送って不安を押さえ、彼に謝礼をしました。
このことから、蘇則には度量があったことがうかがえます。
張魯の討伐に参加する
二一五年に、曹操は漢中の張魯を討伐しますが、その際に蘇則が統治する郡を通過します。
そして蘇則に会って気に入り、軍の先導役を命じました。
張魯が降伏すると、蘇則は下弁に住む氐族たちの情勢を安定させ、河西の街道を通れるようにします。
そして金城の太守に転任しました。
精力的に統治を行う
このころには動乱が続いていたので、官吏と民は故郷を離れ、さすらって飢えに苦しんでいました。
このため、金城でも人口が減少していましたが、蘇則は積極的に人々を支援する活動を行います。
まず羌族を招き寄せて懐かせ、牛や羊を手に入れ、貧しい者や老人を養います。
そして民と食糧を分け合ったので、十ヶ月ほどがすぎると、流民はみな戻ってきて、数千家が統治下に入りました。
それから禁令を施行し、違反する者があれば処刑し、命令に従った者には必ず褒美を与えます。
こうして治安を整えると、蘇則は自ら民に耕作を教えましたが、その年は大豊作になりました。
反乱を討伐する
やがて李越が隴西を拠点として反乱を起こすと、蘇則は羌族を率いてこれを討伐します。
蘇則が包囲すると、李越はすぐに服従を申し入れてきました。
その後、二二〇年に曹操が亡くなると、西平の麴演が反逆し、護羌校尉を自称します。
蘇則はこちらでも、兵をまとめて討伐しました。
すると麴演は蘇則を恐れて降伏します。
曹丕はこの功績によって、蘇則に護羌校尉の官を加え、関内侯の爵位を与えました。
このように、蘇則は優れた功績によって地位を高めていきます。
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