曹休 呉との戦いで活躍した曹操の甥

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さらに昇進を重ねる

曹丕は呉の討伐を行うにあたり、曹休を征東大将軍に任命し、黄金のまさかり(指揮権)を与え、張遼ら二十余軍を指揮させました。

そして洞浦どうほにいる呉軍の将・呂範りょはんらを攻撃すると、曹休はまたも勝利します。

この功績によって楊州牧に昇進しました。

そして曹丕が没して曹叡そうえいが即位すると、長平候に爵位が上がっています。

曹丕は臨終に際し、曹休や司馬懿に、曹叡の補佐を頼みました。

大司馬に昇進する

ついで呉の大将・悳屯しんとんかんに駐屯した際に、曹休はこれを撃破し、その首を取りました。

すると呉の韓綜かんそう翟丹てきたんといった武将たちが前後して軍勢を率い、曹休に降伏を申し入れてきます。

この功績によって領邑を四百戸追加され、合計で二千五百戸となり、大司馬だいしばに昇進しました。

大司馬は国軍の最高位ですので、連戦連勝を飾った曹休は、地位も名声も極めたのだと言えます。

曹操に見込まれただけのことはあり、優れた軍事の才能を備えていたのでした。

呉の策にかかる

228年になると、曹叡は二つの街道から呉を討伐するための大軍を派遣しました。

司馬懿が漢水を通って南下し、曹休は諸軍を指揮して尋陽じんように向かいます。

すると呉の将・周魴しゅうほうがまたしても降伏をしてきたのですが、これは孫権の指示による偽計でした。

曹休はこの策にかかり、敵地の奥深くにまで入り込んでしまいます。

陸遜に敗れる

曹休は罠だったことに気がつきましたが、騙されたことに恥辱を覚え、大軍を率いていることを頼みとし、撤退しませんでした。

すると孫権から大都督に任命された陸遜りくそんが進軍してきて、戦いとなります。

陸遜は中央軍を指揮し、左右に部隊を配置して、三方から同時に攻撃をしかけてきました。

曹休は伏兵を配置して迎撃しますが、追い散らされ、あえなく本隊も撃破されます。

ここで一万もの兵を失い、曹休は初めて大きな敗戦を経験することになりました。

兵士たちが逃走する

曹休は撤退して石亭に宿営したのですが、夜中になると急に兵士たちが驚いて騒ぎ立てはじめ、大量の鎧や武器、軍需物資などを放棄して逃走してしまいます。

曹休は上書して謝罪しますが、曹叡は使者を立てて曹休を慰撫し、儀礼や贈り物は以前よりも充実させました。

これは曹休が皇族であり、地位が重かったので、そのような配慮を受けたのでした。

見苦しい様を見せる

この敗戦から撤退した時、別に部隊を率いていた賈逵かきが救援をしたおかげで、曹休は助かりました。

しかし曹休はかねてより賈逵と仲が悪く、救援してもらったにも関わらず、「進軍が遅かった」と難癖をつけ、放棄した物資を回収しにいくように命じます。

賈逵は当然のことながらこれを拒否し、互いに相手が悪いと上表しあいました。

朝廷では賈逵の方が正しいのは理解していましたが、曹休の立場に配慮し、処罰は行いませんでした。

このようにして、曹休は晩年になってから、いささか見苦しい様を見せています。

間もなく死去する

曹休は失脚することはなかったのですが、この失態が心に響いたようで、やがて背中に悪性のできものができ、重態になります。

そしてそのまま逝去し、壮候とおくりなをされました。

子の曹ちょうが後を継いでいます。

曹休評

三国志の著者・陳寿は「曹休らは皇帝の一族として重んじられ、それぞれに勲功を立て、功労があった」と評しています。

曹休は戦いに強く、皇帝から信頼されており、曹氏の権勢を支えました。

親族に有能な人材が多かったのが、曹氏が持つ強みだったと言えます。

一方において、引くべき時に引かずに陸遜に大敗を喫したあたり、曹休の能力には限界もあったことが示されています。