陳王になる
この年の冬、諸王に対し、翌年の正月に朝廷に参内するようにとの詔が出されました。
その二月、陳の四県をもって曹植は陳王になり、食邑は三千五百戸となります。
曹植はいつも、特別に曹丕に謁見し、単独で時の政治を論じ、試しに用いられたいと希望していましたが、ついにそれがかなうことはありませんでした。
領地に戻ってからは恨みを抱き、絶望にとらわれます。
当時の法制度では、藩国に対する取り締まりが厳しく、臣下はみな商人や才能の劣った者に限定され、兵士は年老いた者ばかりで、人数は二百を超えることはありませんでした。
そして曹植は以前の過ちによって、ことごとにその数を半減されていきました。
十一年の間に三度も都を変えさせられ、常に汲々としており、喜びもなく、ついには病にかかって亡くなってしまいます。
時に四十一才でした。
遺言によって、葬儀は簡素に行われます。
曹植は、末子の曹志が家を保つ君主になるのがふさわしいと考えたので、後継ぎにしたいと望みました。
これより以前、曹植は魚山に登って東阿に臨み、この地で眠りたいと考えます。
このため、東阿に墳墓が作られました。
死後は曹志が後を継ぎ、済北王に国替えされています。
詩文は残される
景初(二三七〜二三九年)の間に、曹植に対する詔が出されています。
このころには、皇帝は曹叡(曹丕の子)に代替わりしていました。
「陳思王(曹植)にはその昔、過失があったが、己に勝ち、行いを慎み、以前の欠点を補った。
そして若年のころから死を迎えるまで、書籍を手放さなかったが、これはまことに困難なことである。
それゆえ、黄初の間にもろもろの上奏によって問われた曹植の罪状と、公卿や尚書、秘書や中書、三府、大鴻臚の元にある書状をみな削除せよ。
曹植が記した賦・頌・詩・銘・雑論などおよそ百余篇を選定して残し、内外に所蔵せよ」
こうして曹植に対する罪状は問われなくなり、優れた文章や詩が後世に伝わることになりました。
後継者の曹志はしだいに領地を増やされ、以前のものと合わせて九百九十戸となりました。
曹植の食邑は三千五百戸でしたので、かなりの領地を減らされていたことがうかがえます。
曹志は学問を好み、才能があって品行がよかったので、晋の時代になると、司馬炎から取り立てを受けました。
そして楽平太守などを歴任し、国子博士になるなどしています。
曹植評
三国志の著者・陳寿は「曹植には豊かな文才があり、後世に伝わるだけの価値を備えていた。
しかし謙譲をもって先行きにある災いを防ぐことはできず、ついに皇帝との関係を悪化させることになった。
伝において『楚には過ちがあったが、斉も正しいとは言えない』とされているが、それはこのことを言っているのだろうか」と記しています。
『楚には過ちがあったが、斉も正しいとは言えない』とは、曹植にも曹丕にも、どちらにも過ちがあったことを指しています。
また魚豢という、魏に仕えた歴史家は、曹植について次のように評しています。
「ことわざでは『貧しい者は倹約を学ばず、身分の低い者は謙虚さを学ばない』という。
これらは人の性分によるものではなく、置かれた状況によって身につくものなのだ。
この言葉は自然の成り行きを表していて、真実をついている。
もしも曹操がもっと前に、曹植が帝位を求めることを抑圧していたならば、この賢明な心の持ち主が、そのような野望を抱いただろうか?
曹彰ですらも恨みを抱こうとも、なお成すところはなかった。(反乱を起こさなかった)
まして曹植においては、どうだろうか。
楊脩は曹植の味方をしたために迫害され、丁儀は曹操の望みに答えようとして、一族が誅滅されてしまった。
なんと悲しいことよ。
私は曹植の華麗な才能に触れるたび、その思念には神が宿っているのではないかと思う。
このことから推測するに、曹操が心を動かされたのは、無理のないことではある」
曹植の、曹丕が魏の皇帝になってからのふるまいを見るに、魚豢が述べた通り、本来は賢明な人柄で、兄から後継者の地位を奪おうと考えるような人ではなかったようです。
しかし曹操がその才能に惚れこみ、後継ぎにしようかと迷ったことが、曹植の増長と、曹丕の嫉妬を招き寄せました。
これが兄弟の関係を悪化させ、魏の王室に深刻な亀裂を招くことにつながります。
王室のつながりが弱かったことが原因となり、朝廷における曹氏の力が弱くなり、後に司馬氏に帝位を奪われてしまうことになります。
曹植の天賦の才能は結果として、当人も、周囲の人間をも不幸にしてしまったのでした。