魏延と楊儀の争いを判断する
234年に諸葛亮が亡くなると、その直後に、配下の将軍だった魏延が、蜀軍の主導権を握ろうとして、騒動を引き起こしました。
そして彼は仲が悪かった楊儀(諸葛亮の副官)と争ったのですが、彼らはどちらも劉禅に上奏をし、相手の非を責め立てました。
その時に、劉禅は董允と蒋琬に、どちらが正しいのかをたずねましたが、董允らは、楊儀の方が正しく、魏延の方が間違っていると判断し、劉禅にそのように伝えました。
結果からすると、魏延は諸葛亮の遺命を無視して好き放題にふるまい、軍権を握ろうと画策し、私欲のために騒動を起こしていたことがわかります。
このため、部下にも見捨てられ、孤立して討伐されました。
董允らの判断は的確なもので、これもまた騒動が早期に鎮められた要因となっています。
蒋琬が董允に報償を与えるように求める
諸葛亮亡き後、蜀の宰相となっていた蒋琬は、益州の刺史(長官)を兼任した際に、上奏をして費禕と董允に、その地位を譲ろうとしました。
また「董允は何年にもわたってお側に仕え、王室を補佐してまいりました。
どうか爵土を賜り、勲功と功績を報償なさってください」とも劉禅に伝えています。
しかし董允は固辞をして、これを受けませんでした。
父の董和は清廉な官吏だったことで知られていましたが、董允もまた、同等の人格を備えていたようです。
そのようなところが、劉禅の側近となるにふさわしいと、劉備や諸葛亮から考えられたのでしょう。
黄皓を抑える
後に、蜀が滅亡した原因になったことで知られる、宦官の黄皓は、この頃から劉禅に仕えていました。
劉禅は成長するにつれ、黄皓を寵愛するようになります。
黄皓は頭の回転が速く、貴人に取り入るのが得意な男でした。
そしてその才能を用い、劉禅に気に入られようと、抜け目なく立ち回ります。
しかし、董允はいつも厳しい態度で劉禅を匡正し、たびたび黄皓をとがめたので、彼が健在な間は、黄皓が好きなようにすることはできませんでした。
黄皓は董允を恐れ、思い切って悪事を働こうとはしなかったのです。
董允が亡くなるまでの間、黄皓の官位は黄門丞という低いものに抑えられ、蜀の国政に影響を与えるようなことはありませんでした。
董允は劉禅のお目付け役としての役割を、しっかりと果たしたのだと言えます。
若者との会談を優先する
董允はある時、友人の費禕や胡済らと一緒に、外出して楽しもうと約束をしました。
そして馬車の準備が整った後で、郎中(近衛兵)の董恢が、董允に挨拶にやってきます。
董恢はまだ歳が若く、官位が低かったので、董允が自分のために外出をやめようとしているのを見て、遠慮して退出しようとしました。
しかし董允はそれを許さず、次のように言いました。
「もともと外出しようとしていたのは、同好の士たちと歓談をするためだった。
いま、君はわざわざ私の元にやってきて、話をしてくださるというのだ。
この機会を放っておいて、宴会に赴くなど、考えられないことだ」
そして馬を車から外すように命じたので、費禕らは馬車の準備をやめ、外出をしませんでした。
董允が誠実な態度を貫き、士人に対して謙虚だった様子は、このようなものでした。
逝去する
その後、董允は243年に、輔国将軍の官位を加えられます。
また244年には、侍中・守尚書令(政務長官)の官位のまま、大将軍(総司令官)となった費禕の次官を務めています。
(官名の前につく「守」は見習いや、兼任していることを意味します)
こうして蜀の重臣として身分を高めた後、246年に逝去しました。
『華陽国志』という史書には、当時の蜀の人たちは、諸葛亮、蒋琬、費禕、そして董允を四相、もしくは四英と呼んだと記されています。
それだけ董允は当時の蜀にあって、存在感のある人物だったのでした。
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