曹操を攻撃して追いつめる
曹操と馬超は黄河を挟んで向かい合う形になったため、曹操が馬超を打ち破るには、まずは黄河を渡る必要が生じます。
曹操はまず、徐晃らを密かに黄河の西に渡らせ、陣営を築かせました。
一方で曹操自身は、潼関の北から渡河しようと試みます。
その先鋒の部隊が河を渡っている最中に、これを好機とみた馬超は、曹操に急襲をしかけました。
馬超が騎兵を率い、渡河中の船団に激しく射撃を浴びせたので、曹操軍には大きな被害が出ます。
この時に曹操の部下の丁斐が、牛や馬を解き放って反乱軍を釣ったため、部隊がばらばらになってしまい、馬超は曹操を取り逃がしてしまいました。
曹操の乗った船は四、五里(約2km)も流されながら、かろうじて渡河に成功します。
曹操軍の将兵は、曹操の行方を見失ったため、みな恐懼に陥りました。
なので曹操が無事な姿を見せると、涙を流して喜びます。
曹操は「今日はもうちょっとで小僧めに、ひどいめに合わされるところだったわい」と言って、高笑いをしました。
しかし同時に、馬超は油断のならない敵だと、思い知りもしたでしょう。
曹操を捕まえようとするも、許猪に阻まれる
やがて戦況が膠着すると、和睦交渉のために会談が開かれることになります。
曹操はただ一人で馬に乗り、馬超と韓遂と会談をしました。
馬超は自らの剛力を頼みに、曹操を捕縛してしまおうと考えていましたが、護衛の許褚がその意図を読み取り、目をいからせて馬超をにらみつけます。
このために馬超は手を出せず、ただ曹操と話をするだけで終わっています。
賈詡の策によって、韓遂との仲を裂かれる
馬超はこの時、黄河以西を割譲するようにと曹操に迫りました。
すると曹操は表向き、これを承知するふりをしながら、参謀の賈詡の策によって、馬超と韓遂の離間をはかります。
韓遂が単独で曹操との会談を要求したので、曹操はこれに応じ、馬を交えて語り合いました。
曹操と韓遂の父は同年に官吏になった仲で、そのうえ当の二人は旗揚げをした時期が同じだという縁もありました。
このため、韓遂と曹操は軍事のことは抜きにして、都の思い出などを語り合います。
馬超が帰ってきた韓遂に「曹操と何を話したのですか?」とたずねても、韓遂は「何の話もなかった」と答えるしかありませんでした。
しかし馬超はこの答えによって、韓遂は自分に言えない話を曹操としたのではないかと、疑うようになります。
また、曹操はあちこちを塗りつぶした書簡を韓遂に送り、韓遂が都合の悪い部分を自分で消したように見せかけました。
それを見た馬超は、ますます韓遂を疑うようになり、両者の関係が悪化します。
もともと、韓遂は馬騰を裏切って、馬騰の家族を襲い、馬超を負傷させた過去がありましたので、両者の同盟には、無理があったのだと言えます。
賈詡はその点をつき、大軍を疑心暗鬼に陥らせ、崩壊させたのでした。
曹操に大敗し、逃亡する
曹操は馬超と韓遂が仲違いをしたのを知ると、軽騎兵に戦いを挑ませました。
そして馬超らがそれに応戦するうちに、精強な騎兵隊を左右に回り込ませ、挟撃します。
すると、すでにまとまりを欠くようになっていた反乱軍は、もろくも崩壊しました。
成宜らはそこで戦死し、馬超と韓遂は涼州に逃亡します。
やがて詔勅が下され、都にいた馬騰や馬休、馬鉄らはみな捕らえられ、その一族もまた、ことごとく処刑されます。
その人数は二百人にものぼり、馬超の反乱のつけは、高くつきました。
馬超は家族よりも、自身と涼州の独立を優先したのですが、この判断の失敗が、以後の馬超の名声を下げることにつながります。
後漢の時代には儒教の影響が強く、親を大事にしない者は、まともな人間ではないとみなされる風潮がありました。
そうでなくとも、どの国の倫理感でも、馬超の取った行動が、褒められることはないでしょう。
どうしてそこまでして馬超が反乱にこだわったのか、そのあたりは不明となっています。
あるいは馬超は、異民族とのつながりを重視し、後漢の存在を軽視していたのかもしれません。
涼州に異民族を交えた独立王国を築こうと企んだから、後漢の朝廷に従った父や弟を、見捨てる気になったのではないか。
そのように想像することもできます。
曹操は馬超を警戒する
これより先、曹操がまだ黄河を渡る前のことです。
馬超は曹操がやってきたと知ると、「渭水の北で曹操を防げば、二十日に満たずして食糧が底がつき、彼は撤退せざるを得なくなるだろう」と、全軍をあげて渡河を妨害する作戦を立てました。
しかし韓遂が「自由に渡らせておけ。河の中で苦しませるのも、いい気持ちではないか」と言い、馬超に賛同しませんでした。
このために河ぞいの警備がおろそかとなり、曹操は黄河を渡ることができたのです。
後でこのことを聞いた曹操は、馬超の見立ての正確さに瞠目します。
そして「馬超の小僧めの息の根を止めなければ、わしは埋葬される土地ですら失ってしまうだろう」と、その才能を警戒するようになりました。
もしもこの時、馬超ひとりが指揮権を握っていたら、曹操も容易に勝利することはできなかったでしょう。
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