皇后となる
219年になると、漢中で曹操を撃退した劉備は、漢中王となりました。
これにともない、呉莧は漢中王后になります。
さらに221年になると、漢王朝が滅亡したので、王統を継承するために、劉備は蜀の皇帝に即位しました。
そして呉莧に任命書を送ります。
「朕は天命を受け、至尊の位につき、万国に君臨することになった。
いま后を皇后とし、使持節・丞相の諸葛亮を遣わし、璽綬を授け、宗廟を受け継ぎ、天下の母とする。
皇后よ、それやこれを敬むのだぞ」
こうして呉莧は、ついに皇后にまで身分が昇ります。
皇太后となる
223年になると、劉備が病のために死去し、代わって劉禅が即位しました。
すると劉禅は呉莧を皇太后(皇帝の母)にし、長楽宮と称します。
劉禅は呉莧の実子ではありませんでしたが、身分の形式上、このような措置が取られたのでした。
こうして妹の身分が蜀で高まったので、兄の呉壱は車騎将軍(序列第三位)となり、県候にも封じられています。
劉琰の妻を宮中に留めおく
ところで、蜀臣の中には劉琰という、失脚した元高官がいました。
劉琰の妻は胡氏といい、容貌が美しいことで知られています。
234年の正月になると、この胡氏は、呉莧への年賀の挨拶のために参内します。
呉莧は胡氏を気に入っていたようで、特に命じて、一ヶ月ほど宮中に滞在させました。
これ自体は何でもないようなことでしたが、夫の劉琰が疑心を抱いたことから、事件が発生します。
劉琰が処刑される
胡氏は美人だったので、劉琰は妻が宮中に留め置かれている間に、劉禅と密通したのではないかと邪推しました。
劉琰はこの時期、失脚して失意の中にありましたので、精神が不安定になっていたようです。
劉琰は吏卒を呼んで妻を鞭で打たせ、履き物で顔を殴ってから離縁するという、横暴なふるまいに出ました。
これに怒った胡氏が劉琰を告訴すると、取り調べの結果有罪と判断され、劉琰は市場に引き出され、処刑されています。
皇帝である劉禅が不倫をしたのではないかと、疑ったことが特に咎められたのでしょう。
この結果、蜀では大官の妻や母が、朝賀に参内する風習が絶えてしまいました。
呉莧に悪気があったわけではないでしょうが、その行動が思わぬ騒動を引き起こしてしまったのでした。
やがて亡くなる
ともあれ、このようにして、呉莧は人相見が予測した通りの、高い身分に昇りました。
しかし、呉莧自身がどのような人で、このような身分の変遷をどう思っていたのかは、伝わっていません。
245年に呉莧は逝去し、劉備が眠る恵陵に合葬されました。
そして穆皇后と諡されています。