南方の反乱も鎮める
その後、蜀の南方で劉冑が反乱を起こします。
すると張嶷は、またも馬忠に従ってこれを討伐しました。
張嶷は常に先頭に立って劉冑の軍と戦い、これを討ち取っています。
やがて別の地方でも反乱が起きましたが、馬忠に兵を預けられて討伐を担当し、二千人の降伏者を得て、漢中に送り届けました。
これらの軍事行動において、張嶷はすべて作戦を立てて成功させており、すぐれた戦術の才能を持っていたことを示しています。
氐族の動きを予測する
236年になると、武都に住む氐族の王・苻健が蜀への降伏を願い出てきました。
このため、将軍の張尉を迎えにやりましたが、約束の日が過ぎても到着しなかったので、大将軍の蒋琬は大変に心配をします。
張嶷はそんな蒋琬に、次のように告げました。
「苻健の帰服の願いには、真心がこもっています。
異変があったはずはありません。
苻健の弟は狡猾だと聞いていますし、蛮族の中には苻健の降伏に同調していない者がおり、分裂が発生したのでしょう。
そのために遅れているだけです」
すると、それから数日がたってから報告が入り、苻健の弟が四百戸を率いて魏に下り、ひとり苻健だけが帰服することがわかりました。
このように、張嶷は異民族の動向に深く通じていたのでした。
越巂太守となる
これより以前のこと、南方にある越巂郡では、諸葛亮が高定を討伐して以来、叟族がたびたび反乱を起こしていました。
そして太守の襲禄(張嶷の友人)や焦璜が殺害される事態となります。
これ以後、太守は郡に行くことを恐れ、郡から八百里(320km)も離れた安上県に滞在するようになり、名前ばかりの存在となっていました。
やがて世の人々が郡を復活させてほしいと望んだので、張嶷が越巂太守に任命されます。
こうして張嶷は統治が難しい土地に、赴任することになったのでした。
越巂の回復に成功する
張嶷は配下の兵を引きつれて郡に到着すると、恩愛と信義をもって招いたので、異民族たちの多くが服従するようになります。
そして向こうからやって来て、帰服する者も増えていきました。
しかし郡の北方にいた捉馬族はもっとも勇敢で、蜀の統制を受け入れませんでした。
このため、張嶷は討伐に赴き、指導者の魏狼を捕縛します。
それからいましめを解いて釈放し、残党に呼びかけさせて帰順させました。
そして上表して魏狼を邑候とし、部落三千余戸をその土地に住まわせ、生業に励ませます。
諸部族はこれを聞くと、蜀に好意を抱くようになり、しだいに多くの者たちが降伏していきました。
このように、張嶷は統治の回復に成功したので、関内候の爵位を与えられました。
討伐を進める
しかしこれで全てが収まったわけではなく、まだ反抗を続ける者たちもいました。
蘇祁の族長・冬逢とその弟である隗渠らは、一度降伏したものの、再び反抗しだします。
このために張嶷は冬逢を誅殺したのですが、その妻は有力者である旄牛族の王の娘だったので、張嶷は影響を考えて罪を許し、処罰を加えませんでした。
このことが、後に生きてくることになります。
隗渠らを討つ
一方で、弟の隗渠は逃亡し、西方の国境地帯に入り込みます。
隗渠は剛気かつ精悍な男だったので、諸部族から恐れられ、はばかられていました。
そして側近の二人を偽って降伏させ、その動向を探るといった計略も備えていました。
張嶷はやがてそれを見抜くと、彼らに厚く恩賞を約束し、寝返らせることに成功します。
するとこの者たちは、共謀して隗渠を殺害しました。
こうして恐れられていた隗渠が死ぬと、諸部族の動向が安定します。
また、斯都の頭領である李求承は、かつて太守の襲禄をその手で殺害した男でした。
張嶷は通達をだして行方をその探り、逮捕すると、長年の悪行を糾弾してから処刑しています。
こうして張嶷は、友人の仇をとったのでした。
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