狄道に出陣する
張嶷が帰還したのは254年でしたが、この年に、魏に属する狄道の長・李簡が、蜀に密書を送って降伏を申し出てきました。
張嶷はこの時、麻痺症の持病を抱えていましたが、成都についてからしばらくして、これが悪化していました。
そして杖にすがらないと、起きあがることもできなくなっています。
長く辺境にいたので、あるいは風土病にかかっていたのかもしれません。
そうした中で李簡の降伏の話が持ち上がりましたが、人々はみな偽りではないかと疑いました。
しかし張嶷だけは「偽りではありません」と主張します。
このため、衛将軍の姜維が、張嶷らを率いて出陣することになりました。
敵地に一身を捧げるために出陣する
この出陣に際し、張嶷は都に帰ったばかりで、足もよく動かないようなので、行軍には加われないのではないかと取りざたされました。
それを聞くと張嶷は、中原で思う存分に働き、敵地で一身を捧げたいと自ら願い出ています。
出発に臨んで、劉禅に対し、次のように別れを告げました。
「臣は聡明な陛下の御代に生を受け、過分の恩寵をお受けしています。
しかしこの身に病がありますので、急にこの世を去ることになり、ご厚遇に背くことにはならないかと、つねに恐れて参りました。
天はわが願いをかなえてくれ、軍事に参加することができました。
もしも涼州を平定しましたならば、臣は国境の外にあって、守将の役を務めましょう。
もしも勝利を得られなければ、この身を犠牲にして恩に報いる所存です」
これを聞いた劉禅は張嶷の心意気に感じ入り、彼のために涙を流しました。
戦死する
狄道に到着すると、張嶷の予想通りに、李簡は城中の吏民を引きつれて蜀軍を出迎えます。
このため、姜維らはそのまま軍を進め、魏の将軍・徐質と戦いました。
張嶷はこの戦いで落命しましたが、味方の倍以上の損害を敵に与えるほどに奮戦しており、自らの言葉を守って、命がけで蜀のために尽くしたのでした。
張嶷が亡くなった後、長男の張瑛が西郷候に封じられ、次男の張護雄が張嶷の爵位を継いでいます。
複数の爵位が与えられたことから、張嶷の一族は厚遇を受けたのだと言えます。
越巂郡の住民たちは張嶷の死を知ると、涙を流して悲しみました。
そして張嶷のために廟を建て、季節ごとと、洪水や干ばつがあるたびに、これを祭ったといいます。
張嶷評
三国志の著者・陳寿は「張嶷は見識に優れ、果断に行動した。
その長所をもって名をあらわし、地位を高めたのは、その才能が求められる時節に遭遇したからである」
また、同じく陳寿が記したとされる『益部耆旧伝』という書物には「私は張嶷の容貌や発言に触れる機会があったが、人を驚かせるようなところはなかった。
しかし、その策略は優れており、その果敢さと激しさは、威光を打ち立てに足るものだった。
臣下としては忠誠心と節義を備え、異民族に対しては、明瞭かつ率直に接する風格があった。
そして動く時には人の模範となるように努めたので、後主(劉禅)は彼に対し、深く敬意を抱いた。
古の英雄といえども、彼よりも優れているとは言えない」
このようにして、陳寿は張嶷を称賛しています。
張嶷が没した時に陳寿は22才でしたので、直接会う機会があったようです。
このように、張嶷は蜀の中にあって、名将と言える存在でした。
病を得ずに魏との戦いで活躍をしていたら、さらにその名声は高まっていたことでしょう。